深い森。
*
「――目が覚めた?」
声が聞こえた、と言う事は、わたしはまだ、死んでいないのだと言う事だ。
少しだけ、穏やかな光がまだ微睡みから覚め切らぬわたしの目を刺激する。
腐った樹のような匂いと、自分が寝転がっている蒲団の、ほんのりと甘い匂いが対照的で。
硝子の張られていない窓から差す光。そして、枕元に置かれた、氷水。
横で座っているのは、自分に差してくる、あの朝日のように、眩しい、穏やかな笑みを見せる――
「お早う、長森さん」
住井護は、そう云って――笑った。
ひんやりと冷たそうな雫が、ぽたぽたと音を立てる。
腕まくりをした住井は、それを力強く絞る。その雫の音色が、ひどく心地よい。
そして、住井はわたしの額にそれを乗せた。
「あんまり冷たくないかな。氷、あんまりなくてさ」
申し訳なさそうに言う住井に、しかしわたしは素直に感謝の言葉を述べる。
「ううん、すごく気持ちいい。ありがとう、住井くん」
言うと、照れくさそうに住井は鼻の頭を掻きながら、
「あはは。それなら良かった」
本当に、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、いつもの教室で、浩平と共にいる時に見せる笑みと、なんら変わりない。
ここは何処だろう?
わたしは、強くソレを思った。
少し古い建物だけど、見ようによっては何処かの教室に見えなくもない。
匂いも臭いし、ベッドもあるけど、保健室だと思えば。
思えるわけがなかった。
*
その、目の前の彼の制服が――真っ赤な血で汚れていたのだから。
眩暈がした。
目の前の人は、人殺しなのだ。
自分とそう変わらぬ年代の娘を、殺した――。
わたしの顔色で、きっと――悟ったのだろう。
「――ごめんね、あんな場面、見せて」
少し悲しそうに、自嘲気味に、住井は笑った。
慌ててわたしは否定する。少なくとも自分を守ってくれた人に、見せる顔ではなかった。
人殺しの是非はさておき――彼は、わたしを守ってくれたのだから。
「ううん、判ってる、判ってる、住井くんがわたしを守るために」
「判ってないよ、長森さん」
*
がちゃり、と――機関銃を手に取った住井護は。
「住井、くん?」
本当に、悲しそうに笑う。
「オレが、この人殺しゲームに乗ってる、っていう可能性は考えなかった?」
引き金に、指をかけた。
「長森さんが寝てる間に、全員殺しちゃった。後は長森さん一人だけ」
首を少し傾けて。
「これで、オレが生き残り。皆、死んだからね」
泣いていた。
きっと、わたしは――心底、おかしな表情をしていた筈だ。
きっと、訳も判らず殺される時には、こんな顔をするのだろうと思う。
ああ、しかし何故だろう、今すぐに死ぬのだと思うと、別に怖くもなかった。
ただ、少しだけ、――寂しかった。
ばあん。
けれど、その音は――住井の口から発せられただけ。
「――冗談だよ、長森さん」
意地悪をしたかっただけだよ、と、――心底、自虐的に、笑った。
涙を――流しながら。声をあげず、泣きながら。
「――最悪だよ、住井くん」
わたしも、――泣いていた。歯を食いしばって、どうしようもない怒りに耐えながら。
悔しかった。ただでさえ、このゲームがまだ夢の中みたいに思えているのに、
まだ、この現実を受容できていないわたしに、どうして、そんな!
「ふざけないでよ! ねえ、住井くん、どうしてそんな冗談言うんだよ!
こんな、誰も殺し合わないよ! こんな馬鹿げたゲームに乗らないよ、絶対、絶対!
泣かないでよ、ねえ! 自分で泣くような事、言ってどうするんだよ!」
「七瀬さんが死んだ」
わたしの怒りを覚ますには、充分な一言、だった。
*
「――え?」
「折原も、死んだ!」
浩平が? 七瀬さんが?
「里村さんも、広瀬も、皆、死んだ! オレが殺したんじゃない! 誰かに殺された!」
「何、言ってるの? すみい、くん」
「長森さんは、半日も、一日近く眠ってた。余程疲れていたか、ショックだったか、それは判らないけど」
その、長森さんが眠っている間に! 住井は、頭を抱えて。
ぽろぽろと、涙をこぼしながら――言葉を吐いた。
「本当に、もう、何十人も殺されたんだ! こんなくだらないゲームに乗って!
何処にも帰れない、そう判って、皆、開き直って! 銃を手にとって、人を殺したんだよ!
見ただろ、あの女の子が長森さんを殺そうとしたの、皆狂っちゃったんだよ!」
「冗談は止めてよ、ねえ、住井くん! そんな事言って、わたしは、騙されないよ、ねえ!」
嘘じゃない事が、なんとなく――分かった。
「嘘、だよ――浩平、七瀬さん、――嘘、だよ」
「――畜生、畜生、ちくしょうっ! もう、帰れないんだよ、何処にも帰れない!」
*
「ごめんね、銃口なんて、向けて」
泣きじゃくるわたしの背中に、思い出したかのように、住井は――心底、申し訳なさそうに、呟いた。
「オレも、混乱してて……本当に、ごめん」
返事はしなかった。
「でも、でもね、オレだって、もう、狂いそうなんだよ! どうして? どうしてオレ達は殺し合ってる?」
その言葉はわたしの心の奥には届かない。
わたしの心の中で呟かれている言葉を聞いたら、彼はどう思うだろう?
いっそ、引き金を引いてくれた方が良かった。
どうせ、生き残れたとしたって。
誰も、いないのだから。
わたしが大切だと思っていた場所には。
*
深い森の奥で――わたしは、初めて放送を聞いた。
それが、第何回目の放送だとか、そういう事には、わたしは興味がなかった。
あと、20人。
たった一晩かそこらの内に――殆どの人間が、死んでしまったのだ。
その生き残りの中に――浩平の名前は、本当に、なかった。
結局、会えないまま――わたしたちは、永遠に離ればなれになってしまったのだ。
本当に好きだった人。大切だった人。
どうして、わたし達が、こんな、訳の分からない殺人ゲームに巻き込まれなければいけないんだ。
*
えらく、長い時間が流れたような気がする。
ベッドの上で住井に背を向けて、泣きじゃくり。
何時間も泣き続けて、漸く枯れてから。
やがて太陽の光は、赤く、重苦しい匂いになり。
夕焼けが輝き、そして――また、夜が訪れる。
ひたすらに静かな夜。
銃声もしない。本当に、今、人が死んでいっているのか。
そう疑うのも当然なほどの、静かな夜。
住井くん、と、わたしは――呟いた。
わたしの後ろで、ずっと、一人、座っていてくれた彼に、わたしは、話しかけた。
「何? 長森さん」
いつもと変わらない、少し軽い調子で住井は、返事をした。
「どうして、わたしを助けてくれたの?」
それが、すごく疑問だった。
わざわざ機関銃を相手に、ナイフで戦う事も無かっただろうに。
それに、わたしが気絶している間に、わたしを殺してしまえば良かったのに。
少なくとも、わたしの事を犯してしまっても良かった筈なのだ。
それなのに、住井は、何もしなかった。
それは、今、この時間にも。
無力なわたしを、暴力で以て制する事も出来るのだ。
なのに、ただ、泣きじゃくるわたしを。
闇。
このどうしようもない深い森の中で、
けれど、美しい月の光が差してくる。
――蒼い蒼い空の色も気付かないまま、
――過ぎてゆく毎日が変わってゆく。
青く染まった空と、明るく照らし出された自分たち。
血の匂いのしない世界と、何処かにある悲しみ。
*
心底、不可思議そうな顔で。
「どうして、って? 長森さんが危なかったから、に決まってるじゃないか」
そうじゃない、と、わたしは呟く。
皆狂っているんだったら、住井くんだって、狂ってしまった方が楽だったろうに。
わたしを犯すなり殺すなりすれば良かったんだ。
わたしは、そんな内容の事を、呟いたのだと思う。
すると、住井は、少しだけ、呆れたような顔で言ったのだ。
[End]