Comment te dire adie


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──死んだ……。ついに、十人を殺した……──
 血塗られた道を、その終着点まで歩ききった弥生。
その目的は達せられた。
 懐から、例の発信器のようなものを取り出す。
 黒服の男から、目標数の人間を殺した後に押すようにと言われていたものだ。
「これでお二人は助かる……」
 今の弥生にとっては、十人もの人間を殺した咎よりも、由綺と冬弥の安全が
確保されることの喜びの方が万倍も大きかった。
 弥生は今や、喜び勇んでそのスイッチを押した。
 ……瞬間。
 ぱん、と乾いた音が島の何処からか響いてきた。
 弥生がかつて、どこかで聞いたことのあるような音。
 しかもそれはそう遠い過去のことではない。
 この島に連れてこられてからの記憶……。
 それに思い至ると、弥生の顔は真っ青になっていた。
 もともと化粧をせずとも白く透き通るようであった弥生の肌は、
ひどく血の気が失せていた。

──嫌な予感がします。しかも、私が今まで生きてきた中で最大級の嫌な予感が……──
 勘などという、曖昧で錯覚の一種に過ぎぬようなものを、弥生はあてにしたこと
などはなかった。 
 本人があてにしようがしまいが、しかし皮肉なほどに弥生の勘は良くあたった。
 無意識のうちに周囲から得られる情報を、その頭脳が計算していたのだろうか。
──まさか。そ、そんなはずは……──
 自らの脳裏に浮かんだ、最悪の状況を振り払うように、
弥生は全力で走った。
 音の聞こえた方角に向かって。
 弥生に聞こえた音は、一つだけだった。
 弥生の考える最悪の事態が起きたのなら、音は二つ聞こえるはずだった。
 それが弥生にとっての希望の光だった。
──私の気の迷い。そう、気の迷いであって下さい……──
 かつて体温を感じさせぬといわれた弥生は、自身の全力疾走によって体を火照らせ、
汗で服を湿らし、髪を振り乱して、生い茂る草で肌が傷つくのにも構わず、ヒールが
折れれば靴を脱ぎ捨てて、ひたすらに音の発生源に向かった。
 そして、ちょうど林の開けたところ、一本の大きな木の根元で弥生が見たのは……。
 
 それは……。
 寄り添うようにしながら、しかし、腹部を内側から吹き飛ばされた由綺と冬弥だった。
 まるで冗談のように二人の顔は綺麗で。
 顔を軽く叩けば、今にも起き出してきそうなのに……。
 二人の腹部は残酷なまでの生々しさを弥生にさらけ出していた。

「嘘でしょう、由綺さん。目を開けて下さい、藤井さん……」
 どうにもならない現実を前に、それから逃避するのは無駄なことだ。
 弥生はいつでも、どんなに絶望的なときにでも、その時点で最適と思われる選択肢を
選び取ってきた。
 だから、今自分が口にした言葉が、何の意味も持たないことは分かっていた。
 けれども。
──けれど……── 
 声にならない叫びを上げる弥生。
 この世のものとも思われぬ、その慟哭が、林全域に響きわたった。
 
 しばしの時が流れ、林をふるわせた慟哭は収まっていた。
 弥生は自らの頬を伝うものに気が付いていた。
──涙? 
 そのようなものが、私の体に残っていたなんて……── 
 すっかり体の力を失って、へたり込んでいた弥生は、
不意に肌に触れる冷たい存在にに気付き、空を見上げた。
「真夏に降る雪……ですか?」
 二人の死を悼んでか、天は季節外れの雪化粧を始めようとしていた。
──全て白く塗りつぶされてしまえばいい。そして、こんな事は現実じゃないと。
 由綺さんが、藤井さんが、声をかけて下されば、どんなにか……──
 急激に降り積もりつつある雪の中で、弥生は呆然と立ちすくんでいた。
 雪は降り続ける。

 
 
 雪は降り続けていた。
 気温の低下は確実に弥生の体温を奪いつつあったが、彼女はその場から動けずにいた。
 しかし、弥生の感傷は不愉快なメッセンジャーによって断ち切られることになった。
 不愉快な機械音。
 続いて、軽薄そうな男の声が懐から聞こえてきた。
 聞き覚えがある。
 主催者側の人間、高槻という男だ。
「クールビューティーの女アサシン、皆お楽しみだったよ。まぁ、最初のつまずきは
不興だったが、その後が良かった」
 弥生は仕舞われていた、それを懐から取り出す。
「我々からのお礼はお気に召したかね? これで、彼女らは『他の誰の手にも掛からずに』
済む。我々は確かに約束を守っただろ? ヒハハハ」
 発信器から高槻の下卑た笑いがこぼれ出てくる。
「ヒハ、ヒャハハハ、アーッハッハッハッ。どんな気持ちだった? アハッ?」
 弥生は発信器を握る手の力を強めた。
「アハ、アハ、アハ、アーッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ。自分で起爆した感想は
どうだったって聞いてるんだよ!」   
 ギリリと唇の端をかみしめる弥生。
「イヒ、イヒ、イヒ、最高でちたかぁ? イヒヒッ、アハ、アハハッ。こりゃたまらん。
 アーハハハハハハハハハハ」
 高槻の狂笑は止まらない。
 弥生は発信器を雪面に叩き付け、踏みにじった。
『イヒヒヒヒヒヒッ、アハアハ、アーッヒャッヒャッヒャッヒャッ』
 それでも、高槻の声は弥生の耳にこびりついて離れなかった。
『イヒヒヒヒッ、アハハハハ、アハ、アハ、アハ、アーッヒャッヒャッヒャッヒャッ』
 かみしめた弥生の唇から、赤い血がしたたる。
「高槻……」
 肩をふるわせて、弥生は叫んだ。 
「たかつきぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃッッッッッッッッ!!」
 弥生の絶叫だけが、雪の降る島に響きわたった。 
 そしてその叫びこそが、弥生が生涯でもっとも感情を露わにした行為そのものだった。
 雪は降り続ける。
 雪はしんしんと降り続けている……。

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