ことば。


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――ここに、ある物語がある。
今まで語られてきた物語の中の誰も、その悲しい物語を知り得る事はない。
というのも、ここで語られる物語は、この殺し合いに参加していたある二人の物語で、
そして、その二人は既にもう、遠くへ旅立ってしまっているからだ。
必要のない話だろうか?だが、時にはそれも構うまい。

この話は、見たくなければ見なくてもいい話。ひどく、嫌な話だから。





 「女の章」





その日が、ぽつぽつと雨の降る嫌な日だった事は覚えている。
だが、それ以外の風景があまりに不鮮明で、本当に自分があそこにいたのかも確信が持てない。
けれど、罪悪感だけは、わたしの心に鋭い爪痕のように残っていたから、辛うじて忘れないでいる事が出来た。
そして、それが単なる現実に過ぎない事も承知していた。
現実とは意外に茫洋としたものだ。改めて思う。
目が覚めている間は、罪悪感に溺れてはいても、涙は流したとしても、
それでもまだ、現実から乖離することなく、わたしは生き続ける事が出来た。
だが、ふと眠りに落ちた時、わたしはどうしようもない恐怖に襲われる。
人を殺すと言う事は、自分も殺される因果が出来ると言う事。
誰かに殺される夢を見る。誰かを殺す夢を見る。いつ見ても、てのひらは赤く赤く赤く。
手が真っ赤だった。何故これ程に赤いのだろう。洗ったのだ。石鹸でそれこそ血が出るほど磨いた。
何度も洗ったのに、なのに赤い。
きっと一生わたしの手は赤いのだ。

わたしは小さな家の中に入ると、そこで無防備に眠っている青年に音も立てず近寄る。
右手に握ったバタフライナイフをその青年の首元に添えて、そのままそれを横にずらす。
悲鳴もあげる事が出来ず、青年は果てた。
噴き出す血を全身に浴びながら、赤く染まっていく自分の服と精神を他人事のように眺めながら、

わたしは、自分の選択が本当に正しかったのか、それを吟味しながら、ぼうっと空を眺めた。
正しいわけがないのだ。
こんなくだらないゲームに巻き込まれ、そして殺された。
彼らにも生活はあった筈で、わたしと同じように家族もあっただろう、
子供を持つ人もいたかもしれない。
わたしと同じように、娘を家に置いて来ている人もいるだろう。
だからこそ、わたしはけしてそれらの日常を破壊する事があってはならなかった。

ふと、中学生になる娘――名雪が読んでいた、ある漫画の台詞を思い出した。
「お前は今まで食べたパンの枚数を覚えているのか?」
そう言い切れる程に、わたしは強くも、弱くも、ない。
今果てた彼が五人目で、そして、課せられたノルマは果たされた。

名雪が一人で家にいる。もう二日も家を空けている。きっと心配している、
早く帰らないと、早く帰らないと。
そう願って、わたしはきっと過ちを犯した。

わたしは、主催者側の手駒になる、という条件に乗ったのだ。
五人分の血を吸ったナイフと服は、わたしの罪だ。
小さく息を吐いて、わたしは――泣いた。
心底から泣いた。
横で白目を剥いて倒れている青年を見つめながら。

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

人が死ぬのに接するのは、――思い出の中でのあの事故を含め、二度目だった。
血と夕焼けしか残っていない、あの思い出だ。




――その契約をし、そしてノルマを終えたら集まれとされていた、あの場所に向かっている内に、何度目かの放送が流れた。
わたしは茫洋とした表情でそれを聞いた。
「後十五人だなー。まあ、ともかくその十五人は指定された場所に来なさい〜。
 まあつまりアレだ、主催者側しか残ってないってオチなんだなー」
――終わった。これで、自分たちは帰れるのだ。
五人分の血を吸って、しかも自分自身は殆ど無傷で終える事が出来た、というのは、幸いとしか言いようがない。

そこに着いた時、異様な雰囲気を感じずには得られなかったのは無理もなかった。
広いホールに集まっている彼らを見て、わたしは思わず息を呑む。
そこにいたのは自分よりも遙かに大きな身体をした男ばかりだった上、それらに凶悪な匂い、悪魔のような力を感じた。
入ってきた自分を一瞥すると、すぐに彼らは息を吐く。

「あんな女が――?」
「信じられないな」
真っ赤に汚れた女の自分の姿、にも関わらず殆ど傷一つ負っていない姿は、彼らには異常に映ったはずだ。
ざわめきの中、わたしもまた、彼らの後ろに座る。
そして――契約者、高槻の登場を待った。

十分後現れたあの不愉快な顔――高槻は、五人ばかりの警護と共に現れた。
肩を竦めながら、その肩に背負った小銃を手に持つと、こんな事を呟いた。
「ご苦労様だ。――だが、まだ足りないんだな。
 脱出させてやる、と契約をしたが、実は救える人数が僅かに五人しかいない訳なんだわ」

「というわけで、もう少し殺し合いをしてもらう。ここにいる十五人でな」

一瞬にして空気が凍る。
何人かがわたしの方を見て、ごくりと唾を呑んだ。
それはそうだ。わたしは中で一番脆弱な女だ。銃こそ持ってはいるものの、それで彼らに勝てる気もしない。
ここまで運良く生き残る事が出来た自分も、だが、最後の五人にまで生き残れる自信はなかった。
都合良く一番後ろにいる。逃げようと思えば――
「女、逃げる必要はない」
その瞬間、そんな声が聞こえた。太く逞しい声は誰のものか判らない。
だが、冷静さを欠いたわたしでも、その声の主が、今立ち上がって拳銃を構えた男である事くらいは判る。

「貴様は」
「ただでさえ俺は殺したくもない人間を殺した。姪達や息子と同じような年齢の子もな。
 俺はどんな理由があれ人殺しだ、彼らを殺した罪を背負って生きていこう」
そう長くは生きられないだろうが、と、意味深に付け加えて。
「俺にも生活があった。姪達が帰りを待っている。そう思って引き金を引いた、
 それに、殴った、刺した。これ以上殺したらおかしくなるんじゃないかってくらい、な。
 罪悪感で死にそうだった。未来ある若者を殺したんだ。お前らは殺させたんだ。
 ――俺は何があっても帰らなくちゃいけない。そして、これ以上殺したくはない」

「意味が分かるか?」

次の瞬間だった。
男がガチリ、と撃鉄をひいたかと思った時、

タタンッ!

男は――高槻の後ろに立ち、そのこめかみに拳銃を充てていた。
「なっ――!」
高槻は驚嘆の声を上げる。警護の兵士が慌てて銃を構える前に、
「動くな、動くとこいつを殺す」
そう、その男は制圧した。
早かった。
人の為せる技ではないと、そう確信せざるを得ない、

「そこにいる十四人の罪深き人殺し達」
その男は、声を張り上げて、自分たちに呼びかける。
「どんな形であれ、俺達は人殺しだ。どんな理由があれ、法がそれを裁けないとしても、俺達は罪人だ」
わたしはごくりと唾を呑む。なんて、声だろう。
「だからこそ、生き残らなければならない。生き残るために殺したのだから、
 生き残らなくては意味がない。ここで殺し合いをしよう、などと考えるな!」

なんて、強い声だろう。
「高槻! 俺達をここから救え。これは命令だ。隙を衝いて俺を殺そうとしても、俺含め十五人の中には、
 間違いなくここを制圧出来るだけの力を持った人間はいるんだよ」
「――貴様、力が」
「結界とか言うのは破壊している。小さなものだっただよ、俺達を制圧していたのは。
 おかげで力が暴走して、俺の心もおかしくなりそうなくらいだ。
 そこの君も、そこのあんたも、気付いていないか? 力は戻っているんだよ」
ごくり、と誰かが唾を呑む声が聞こえ、そして次の瞬間に、また男が声を上げる。
「脱出用の船か、潜水艦がある事くらい判る。潜水艦だろうな、島を飽きるほど探索し、海を眺め続けたが、
 船など何処にもなかったからな」

震える高槻が案内した場所は、島の端――血の匂いのする、小屋だった。
そこは、先に自分が五人目の青年を殺した小屋。
死体は変わらず転がっていた。顔をしかめ、その顔を見ないようにした。
部屋の真ん中、樹の床の下に続く階段。
床に穴が開いていたのには気付いていたが、まさかそんなところからだとは気付かなかった。
こんなところに道があったのか――。
「この道は、あそこに見える、小さな島の地下に繋がっている。そこに潜水艦がある」
未だに銃口を高槻に充てたまま、男は疑わしげに息を吐く。

「本当だろうな」
「あ、ああ、本当だ、本当だ」
それでもその男は用心深く、用心深く、行動するつもりだったのに違いない。
だが。
「ひゃっほう! やっと帰れるぜっ!」
一番年が若いと思われる、大学生くらいの男が真っ先にその道に飛び込む。
「階段があるっ!」
そんな声が聞こえた。どうも、本当だったようだ。
それを皮切りに、他の生き残りも一気にその穴に飛び込む。
わたしも、その流れに沿って飛び込む。
「ま――待てっ!」
男が呼び止めるも――止まるはずも無かった。



「男の章」






ちぃ、と舌打ちして――オレに銃を向けていた男、柏木賢治も、すぐに穴に飛び込んだ。
「罠かも知れないとは思わなかったのかよ、お前らっ!」
遠くでそんな声が聞こえる。
ビンゴだ。――罠だよ。
ここが唯一の脱出経路であると云う事は事実だ。
だが、問題は、その経路の至る所に爆弾が設置されている、と言う事だ。
爆弾が作動したら海水が通路に流れ込み、彼らはお終いになる。
つまり、今自分がスイッチを押せば、終わりな訳、なのだが――。

何故だろう。
あの女が通路にいる、と考えるだけで、何故かまるでボタンを押す気になれない。
この感情は何だ? 自分は高槻だ。エリートで、FARGOの幹部として働いて、
死ぬほど女を犯して、人の心など失っていたとばかり思っていたが。
あの女が気になる。どうしてなのか理由も知れない。
ここで殺してしまっても、たぶん数日後にはすべて忘れる事が出来るだろう、
なのに、
「――畜生」
舌打ちして、オレも穴に飛び込んだ。

オレは意外とバカだったから、爆弾の起爆装置が自分だけに持たされているとばかり思っていた。
そして、警護の兵士達も、自分に忠実に従ってくれると信じていた。
だから不用意に飛び込んだのかも知れない。

真っ暗な穴の下に続く土の階段に足を踏み入れる。そして、そこに備え付きの電灯をぱちりと点けた。
入ったばかりのこの辺りは殆ど整備されていない、土と岩の坑道のような印象だが、
この階段を降りて少しばかり歩けば、整備された通路がある筈だった。
そしてオレは、慎重に階段を階段の下で倒れている女を見つけた。

薄情な事に、先に行った男達は誰も気にも留めなかったようだ。
だがむしろ、この暗闇の中、誰かが気付く方が自然で、
更に言えば良くこの暗闇の中、他の十四人が無事に抜ける事が出来た事の方が自然だ。
「おい、女」
頭を打ったようで、気絶したまま女は息を吐いていた。
名前は忘れていた。綺麗な女だな、と思っただけで、それ以上の感慨を抱かなかったから――
本当にそんな理由だけだろうか。
オレは、この女の名前を拒絶しているのかもしれない、と思っていた。
名前は覚えている。覚えているはずなのだ。確か――
「うう、ん」
呻き声をあげ、その女は、目を覚ました。
「大丈夫か、女」
女は声を掛けると、びくりと身体を震わせ、そして、強く、オレを睨んだ。
無言。オレは小さく息を吐いた。
「別に何もするわけじゃない。ここを抜ければ潜水艦は絶対にある」
足が痛むのだろう。右足を押さえながら、それでも声も上げない。
「足が痛むなら肩を貸してやる」
なんと似合わない言葉を吐いているのだろうか。オレは苦笑する。
「――優しくしたって、何もありませんよ」
女は、漸くそんな言葉を呟いた。

結局女はすぐに立ち上がり、オレの肩を借りようとはせずその通路を駆け抜けようとするが、足が痛い為に速度は出ない。
結果、オレの歩く速度とまるで変わらない。
というか、オレが亀のように歩いている、それと同じくらいの速度だ。
横でつらそうに歩く女に、オレは声を掛ける。大丈夫か?
仏頂面で歩くその女は、無機質に返事をする。大丈夫です。

そんな、自分に不似合いな事を喋りながら。
ひどく、懐かしい感じがした。

未だに土の道を抜けない。
つまりまだ、海の下ではない、地面の下にいるわけだ。
その整備されていない道を、二人並んで歩くその情景に、オレは確かに覚えがあった。
ずっと幼い頃の、思い出。


そしてその瞬間、漸く、オレはこの女の名前を思い出す。
その名前を、呟こうとした瞬間っ――!

ガァァァァァァァンッ!

前方で激しい爆発音がした。
――まさかっ!
自分は起爆装置を操作していない、なのに、つまり、
「オレは捨て駒か――!」
がたがた震えながら女はオレの顔を見る。
「何があったのっ!」
殆ど半狂乱で女は叫ぶ。
「判らないっ、とにかく、あっちからは海水が浸ってくる筈だっ――!」
オレは女の手を牽き、今来た道を舞い戻ろうとするが、
――遅かった。
土砂が崩れ始め、そして、自分の上に、女の上に土砂が崩れ落ちてきたのを最後に、意識が途切れた。

――不快なものが喉に入り込んで咳をした。
それが土だと気付く。そして、自分が生きている事にも気付く。
オレは目を覚ました。意識を失う前の記憶は明瞭としている。
真っ暗な、土の中で、騙し討ちにあい、オレ達は生き埋めになった訳なのである。
割と道幅が広かったためか、それとも何かしらの設備があったためか、
その空間に酸素は充分にあった。
取り敢えず、今すぐ死ぬという事もあるまい。
土砂が身体中にかかっていて、頭も砂だらけ服も砂だらけ、ついでに靴の中にも砂入りだ。
「やってれん」
オレは溜息を吐いた。
息を吐いて漸く、自分と共にいた女の事を思い出す。無事だろうか。
運良く持ってきていた懐中電灯のスイッチを点け、近くにいるはずの女を捜すが、見当たらない。
生き埋めになってしまった可能性も少なくない。
土砂が入り口も出口も塞いでいるわけで、この狭い空間にいないと言う事は、つまりそれは死を意味するのだった。
それならば、自分が彼女を追ってきた意味もなく、この砂の中で自分は死ぬ事になるわけだ。
アホだな、オレは。


「――ぅ」
びくりと振り返る。生きていたのかっ? そちらを見ると、確かに顔があった。
殆ど土砂の下に埋まっていた彼女は、だが顔だけは出ていて、なんとか息はしていた。
オレは必死になって女の身体を侵蝕している土砂を掬い、そして、強引に女を引っ張り出す。
土砂の重みに身体は傷ついている。だが、それでも数分後には女は目を覚ました。
そして、オレの顔を見て――笑ったのだった。
悲しい悲しい笑い。
裏切られたオレを見ての笑いだろうか、それとも自分を卑下する笑いだろうか。
そして、オレも、笑った。

しばらく沈黙があった。喋ると酸素が減り、それだけ死が近付くわけだ。
オレは息を吐く度に、死が近付いている事を確信する。

沈黙を破ったのは、オレの声だった。
「――五人、多くて、まあ、八人だな」
その深い深い大地に埋もれながら、閉じられた地下道の中で、オレはふと、呟いていた。
「何が、ですか」
心底つまらなそうな目で、目の前の女は呟く。
若く見えるが、多分、三十くらいの年の自分と、それ程に年が離れていると言う事もなさそうだった。
赤い服と汚れた顔をみて、オレはどうしようもない気持ちになった。
まあ、ここで生き埋めになってしまうわけだから、そりゃあつまらなくも聞こえるわな。
酸素は薄いわ、砂塵は肺に入って気持ち悪いわ、最悪の場所で死ななければならん。
「潜水艦に入れる人数だよ」
「そう、なの」
「つまり、この道を抜けていったはずの十四人――あいつらは、殺し合いをせざるを得ないわけだ。
 初めから、そういう計画だったわけだよ。本当は最後の一人までやるつもりだったんだろうが、
 そんなのは実質難しかったわけだ。試作結界も破壊されてしまった訳だし」
「――へえ」
興味なさげ。そりゃあそうだ。何人も人を殺して、やっと帰れるかと思ったところで、こんなオレと心中だ。
子供じゃないんだから、こういう暗い中に閉じこめられても、うきうきするわけがないんだから。
「高槻さん」

悲しげな息を吐いて、女は呟く。
「なんだ」
「どうして、こんなくだらないゲームの管理者なんかをしようかと思ったんです?」
「FARGOと、どっかのお偉いさんの企画だよ。FARGOの幹部だったオレは、
 まあ、必然的に管理者にならされたわけだ。
 まあ、自分で言うのも何だが、そこそこに有能だったしな」
ま、こんなところで裏切られる程度の器だったって事だが。
オレは自嘲気味に笑った。
だが、オレの自嘲を許してくれるほど、女は甘くなかった。
「――こんな、殺し合いなんかしたくなかった。どうして、わたし達が殺し合いなんかしなくちゃいけなかったんですっ!」
泣きながら、女は言う。
「――本当だわな。何でオレは、こんな事に乗ってるんだろうな、畜生」
オレは息を吐いた。そして、自分が泣いている事に気付く。
「泣いたって、仕方ないんです! わたしは自分の娘と同じ年代の男の子を、殺した! この手で」
どうせ死ぬんだったら、殺さなければ良かった! 殺さなければ良かった――」
うあああ、と、大人の姿をした彼女は、まるで、少女のように、泣いた。

「水瀬、秋子、だったよな」
泣きじゃくる彼女に、オレは、声を掛けた。
「――」
「どうせここで死ぬんだから――少し、世間話でもしよう」
「嫌です」
「そう言うな。あんた見てると、オレは子供の頃を思い出すよ」
「嫌です」
「聞いてるだけでも良いよ。オレには、小さい頃好きだった女の子がいた。偶然だが、名前は秋子って言った」
水瀬秋子は、それを聞いて――沈黙した。
そして、この薄い酸素の中で、今まで気にかかっていたその記憶の疵がなんだったのか、オレは漸く理解した。
この女は、名前だけでなく――顔つきも、あの時好きだった、女の子に似ているのだと。

「ずっと好きだったその女の子が、突然にいなくなった。それなりに仲も良かったから、ショックだった。
 オレは割と田舎の方に住んでいたから、毎日、その野径をその子と一緒に学校に通っていたから、
 それからはずっとオレは一人で学校に向かっていた。――母親が死んでいたオレは、その子との生活が、
 だから、すごく楽しかったから。何で何も言ってくれなかったのかな、ってずっと」
「だから、それがどうしたんですっ! そんな話聞いても、わたしには、何も、何も」
「聞いてくれてるだけで良いって言っただろ? オレはその子と話している間が最高の至福の時だった。
 あんたはその女の子にすごく似ている。聞き上手だろ、たぶんあんた。娘さんの話とかも聞いてあげる良い母親だ」

「だから、わたしは、」
秋子は泣いていた。
何故泣く? お前はオレの思い出の、あの少女じゃないだろうが!

「秋子、お前は死ぬな」
オレは、おかしな事を呟いているな。

「あんたは、今度こそ、死んじゃ駄目だ」

「――どうやって生き残れと云うのよ」
「――ここはまだ、島の下だ。土砂を掘り続ければ、出られるかも知れない」
「――出られたとして、そこからどうしろと言うんです!」
「なんとかなる。一時でも命を獲得出来れば、必ず、なんとかなるっ」

思い出していた。
彼女は転校したのでも何でもない。

自分が慕っていたあの女の子は、当の昔に死んでいたのだ。

オレが狂った理由だって、そこに在る事を。

ある日二人で登った、あの樹の上の記憶。
美しい街、そして、世界。
青い空、そして世界で一番美しい景色だと思っていたのに。





「置いてくよー」
「ま、待ってよ――」
田舎道を、彼女と一緒に走り回る事が、あの時のぼくの日課だった。
彼女は見かけに寄らず行動的な子で、いつもぼくは振り回されていた。
短い髪、細い肩、そして、白いワンピース。

お母さんがいないぼくは、彼女に出会うまでは、いつも一人だった。
お父さんは仕事で忙しくて、ぼくはすごく陰気な子供だったから、友達も少なくて、
一人で、本を読んだりトランプをしたりするしか、する事がなかった。

夏休みに入ってすぐ、隣に一人の女の子が引っ越してきたのを聞いても、ぼくがとりわけ興味をひかれる事はなかった。
どうでも良かったから。にも関わらず、である。
その子が引っ越してきた次の日から、ぼくは彼女と共に野を駆け回る事になったのである。
都会からきた真っ白な顔をした少女は、ぼくのお父さんがまだ帰ってきていない時に、
隣のぼくの家に、ご両親と一緒に挨拶に来た。
子供一人で留守番をしていたぼくに対する同情も少なからずあったとは思う。
それでも、同情されるだけマシだった。
そういうわけで、親がいないぼくにとって、彼女との暮らしが、幼年時代の大半を占めていた。

――髪切ったんだよ、ほら、可愛いでしょ!
――ここってすごく空気が綺麗。お日様も空も本当に綺麗!
――お祭りだよ、ほら、一緒に行こう!
――ねえ、一緒に山に登ろう! 虫さされなんて気にしちゃ駄目だよ!

――ほら、あそこに大きな木が見えるじゃない! あれに登って街を見たら、きっと綺麗だよ!

ああ。
そう、それがオレの幼年時代じゃないか。
素敵な素敵な、綺麗な思い出だ。
どうして思い出せなかったか、って?
決まっているよ。

嫌な事っていうのは、思い出したくないものなんだよ。

ああ、覚えていたんだよ。だが、それを認識するのがとんでもない苦痛だったんだ。
あの日、あの少女――秋子は、その樹の高い高い枝から、滑り落ちたんだよ。
高い高い木の枝から、滑るように、落ちた。
オレの横で、バランスを崩して、頭からか背中からか知らないけど、落ちて。

――そう、

そして、オレは、血を流し倒れた彼女に駆け寄って、
そして、流れた血が、オレの顔を、手を汚して、
声を掛けても返事をしてくれない、
あの時十歳くらいだったオレは、どうすれば良いか判らなくて、
それでもなんとか、病院に連れて行こうとして、
背中に背負って、
彼女が何か、呟いたのを最後に、
心臓の音が止まったのに気付いて。

――ああ、そうだ。

そして、怖くなって彼女を放り出し半狂乱で飛び出したオレは、
自分の家に引きこもり、数日後、

――そう、あの日は今日のような夏の日だったんだ。

山で腐っていた彼女が見つかった事を聞いて、
狂ったんだよ。

きっとぼくは、誰も人を幸せに出来ないのだと、
その時悟ったんだ。

だからこそ、ぼくは自らが狂った道へ、落ちていったのだから。

だが、それは結局、甘えだったのだろう。
彼女に言わなければいけない言葉があった。死ぬ前に、言わなければいけない言葉が。

ぼくは山登りの最中、
そして、樹を登っている時、嘘を吐いたんだ。
ぼくはこの山に登った事があるし、木に登った事もある。
そんな、見栄だけの嘘を。
もし、ぼくが危ないよ、と止めていれば、

きっと彼女は――。

「だいじょうぶ、秋子ちゃん」
つらそうに山道を歩くぼくを無視して歩き続ける秋子。
「だいじょぶです」
活発だと云っても、彼女に体力はそれ程ある訳じゃなかったから。
樹を登る時も、何度も滑って、滑って。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」

既視感の正体は、あの日の、風景だ。


――死ぬまではすごく短い。生きている間は、もっと短い――

オレと水瀬秋子は、無言で土を掘り続けた。
オレの独白を聞いてから、ずっと会話がない。
酸素も残り少ないだろう。その重圧の中、無言で。
爪が割れ、血がだらだらと流れる。
生きて帰りたいと願う彼女と、彼女を生きて返したいと願うオレ。

砂埃が目に入って痛い。光がないそこで、オレは、眩暈を感じる。
もう、絶対に出られないのではないか――そんな予感すらしてきて。
だが、方法はある。もうだいぶ上まで掘った。
ならば、もしかしたら。
いや、多分に、――上手くいくだろう。

ごほごほ、という咳が聞こえる。
顔が青くなっている水瀬秋子を見た。酸素も残り少ない、だろう。
このまま掘っているだけで、生き残れるかどうかも判らない。
生き残って欲しいという願いだけで、生き残る事など――。

だから、オレは、最後の手段を使う事を考えた。
「水瀬秋子」
振り向いた秋子の顔は埃まみれだった。青くなった顔、充血した目。
「なん……ですか」
「お願いがあるんだ」
「――?」
「出来たら、言って欲しい言葉がある」
「なんですか」
「そして、言わせて欲しい言葉がある」

「ごめんなさい、秋子ちゃん」

秋子は、状況が良く掴めないようだった。
「本心じゃなくて良いから、オレって言う馬鹿を救う意味で、言葉をくれ」

秋子は少しだけ戸惑っていたが、――すぐに、少しだけ笑って、呟いた。

「――許してあげます」

「――ありがとう」

決心が付いた。
「実は、オレは爆弾を持っている。ここまで掘れば、それで吹き飛ばせるかも知れない」
だから、少し下がっていろと、オレは言った。
「もっと離れろ。そう、もっと、もっとだ」
秋子は素直に従って、後ろに下がる。今はもう、藁をも掴む思いだからなのだろう。

オレは起爆装置を幾つか持っていた。
そのうち、今自分が使用する事が出来る爆弾は一つ。

いざとなった時のために、自分の腹の中にいれて置いたものだった。

ごめんなさいと、云えたのだから。
たぶん、オレの心を侵蝕していたすべては、もう、取り払われた。

さようならだ、ぼくの美しい思い出と、悲しい人生に。

秋子が、遠くで呼ぶ声が聞こえる。
「高槻さんっ!」

「なんだ?」

「わたしにも、一言、言わせてください!」

「ごめんなさいっ!」

――訳が分からないが、まあ、いい。

「とっくの昔に、許してるよっ!」

オレは笑って、そして、右手のスイッチを押した。

「再び女の章」




意識の最後に残っていたのは、何かの破裂した音。爆弾の音だろう。
――どれだけの間、眠っていたのだろう。

気付くとわたしは、病院のベッドで眠っていた。
どうやら、田舎町の道路で倒れていたところを保護されたらしい。
横で名雪が泣きじゃくる姿を見て、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんね、名雪」
「もう……一週間も帰ってこなかったから、わたし、わたし」
「ちょっと仕事が忙しくてね。そうしたら麻薬組織に攫われて……」
「もうっ……冗談言わないでよ〜」

結局、どうやって自分は救われたんだろうか。今でも判らない。
殆ど怪我をしていなかった自分は、だからすぐにいつもの生活に戻る事が出来た。
人を殺した感触を覚えている。
覚えたまま、生きていかなければならない。
当然だ。
ニュースで、一度に何十人もの人間が行方不明になったという事らしい事が流れた。
わたしは事情聴取を受けたが――
「何も覚えていません」
と、首を振り続けるだけだった。
そういうわけで、今度の事件は「現代の神隠し」として、色々なところで話題になった。
――解決される事はなかったのだという。

わたしが人を殺したのは、あくまで名雪を護るためだった。
ならば、何があったかを話すのは、その名雪を傷つける事になるだけだった。
だから、わたしの心の中で、死んでいった人たちの事を忘れずにいようと思う。


秋子ちゃん、という呼び名に聞き覚えがあった。
幼い頃の思い出に、良く似ていた。
まだここが田舎町だった頃からあった、大きな樹を思い出しながら、わたしは、小さな溜息を吐いた。

そして、高槻の顔を思い出す。

彼の幼馴染みの秋子という少女は、樹から滑り落ちて死んだのだという。


聞いた時、身体が震えたのは――理由があった。

偶然だが、自分にも、高槻という名前の幼馴染みがいた。
そして、彼の幼馴染みの秋子のように、わたしの幼馴染みも、あの樹から滑り落ちて死んだんです。

「似ていたんです」

あなたも、わたしの幼馴染みに。
その事を話そうと思って、結局話す事が出来なかった。

もしかしたら、すべては夢なのかも知れないとも思う。
すべてが夢なのかも知れない。

あの日、一緒に樹から滑り落ちたわたしと高槻の、
死に至る瞬間に見ている、短い短い夢なのかも。


わたしは今、本当に生きているんだろうか?

そして、高槻はあれからあの時まで、生きていたんだろうか?



わたしと高槻は、ともに、大切な人をなくして、狂いかけていた。
わたしにはお母さんがいて、彼にはいなかった。
言ってしまえば、傷ついた子供を護る、親がいなかったから、彼は狂ってしまった。
その差で、きっと、自分と高槻は違ってしまったのだ。けれど、その本質はきっと同じで。

――名雪を見る。

この子を護るためなら、わたしは何だってしよう。
わたしはこの子にことばを教えよう。
誰よりも優しい言葉を。優しい優しい言葉を。

それが、わたしが高槻に課せられたことばの意味だったのだと思う。

不思議な世界かもしれない。
彼の幼馴染みはわたしで、そしてわたしは死んだ。
わたしの幼馴染みは彼で、そして彼は死んだ。

けれど、それはたぶんそれほど不思議な事じゃないのだ。

わたしは彼のことばを覚えている。
彼がわたしにくれたことばを。
ならば、それ程に戸惑う事もない。
大切なことばが残っているのだから。

――――――――――――――――――――――閉幕。

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