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繋がれた風。(Farewell, My Lovely.)


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「――ばか」
僕はそう云って悲しげに微笑むと――目の前で無理に笑おうとしている初音の腹に、その拳を叩き込んだ。
初音の薄い腹を貫いてしまうかのような重い衝撃が与えられた事が、
自分の手応えと初音の苦悶に歪む表情で確かめられる。
「うあっ」
小さな叫び声。腹を抱えて蹲りながらも、それでも尚初音は僕を見上げた。
その目が、ひどく悲しい。
置いていかれる事を悟った捨て猫のような瞳だった。
けれど、その瞳を見てはいけない。
飼い猫を捨てる時その目を見たら、情が移ってしまうだろう?

彼女と共に生きていきたいと思っていたのは誰よりも僕自身だった。
彼女の事を誰よりも愛しいと思っているし、ここから帰って一緒に生きていきたいと――
そう、願っていたけど。
――やっぱり無理だと思うから。

一人でだって人は生きていける、そう信じよう。
彼女は強い子だから。僕が今目の前で死んだところで、後を追ってしまうと云う事はないだろう。
彼女は優しい子だから。僕の遺志を汲んで、きっと最後まで生き残ってくれるだろう。
そう、信じよう。
初音の事は耕一が護ってくれる。
ああ、耕一。僕は君に酷い事をした。
そんな僕が君にお願いをする義理など、何処にもないのだけど。
まあ、大切な妹を護るのは当然の事だし、僕が云うまでもないだろうけど。

それでも、お願いするよ。

「僕の事は忘れろ。耕一が、きっと君の事を護ってくれる」
彼女の顔を見ないで、僕は云った。
そう、僕の視線の先にあるものは、ただ広がり続ける海だけだ。
僕は目の前の崖の更に先の方を見つめ、そこに向けて一歩ずつ歩を進める。

「――大好きだよ」

掠れた声で、初音はそう云った。
僕に殴られて、声も出せない、息も出来ないくらい苦しいだろう。
その様子が声から判る。けれど、僕は振り向かない。
振り向いてしまったら、おしまいだから。

「絶対、忘れないよ」

――そんな事を言うから、抱き締めたくなってしまうんだよ。
ああ、神様。もう一度だけ許してください。
もう一度彼女の顔を見る事を。
もう一度彼女と、言葉を交わしても?

「ばか、忘れろ」

抱きしめたぬくもりを、僕は忘れない。
交わした唇の暖かさを、僕は忘れない。
君といて救われた時間を、僕は忘れない。
君といて安らいだ時間を、僕は忘れない。
君のくれたやさしい言葉を、僕は忘れない。
君のくれたかなしみの雫を、僕は忘れない。
この島で君と過ごした日々を、僕は忘れない。
世界で一番幸せだった日々を、僕は忘れない。
――忘れないから。
だけど君だけは忘れてくれ。それが僕の最後のお願いだ。

そして、初めて抱きしめた時のことを思い出しながら。
僕は目を瞑り、耳を塞いだ。

「――……嫌だよっ! ずっと、ずっと彰お兄ちゃんと一緒にいたいよ、」
「――……傷つけても良いよ、傷つけてもっ……」
「だから、ねえ、やめて、やめてええ!」

そんな彼女の声も聞こえない。彼女の姿も見えない。
彼女が泣き喚く声も聞こえない。

そして僕は、中空――永遠に広がる海に向けて、足を一歩踏み出した。

泣きじゃくるわたしは、まるで動く事の出来ない自分の身体を懸命に動かそうとして。
それでも足が動かないのは、単に腹の痛みから、というだけではなく――「怖い」からなのだと思う。
恐怖によって、わたしの身体は今、完全に支配されている。
動かなければ失くしてしまう、けれど――失くすという恐怖がわたしの身体を動かせなくしているという矛盾。
動くのは辛うじて喉だけ。
「嫌だよっ――……」
けれど、その声すらも掠れていて。耳を塞いだ彰には届いていないだろう。
なくす。
なくしてしまう――。
その恐怖の渦の中に、わたしは既に巻き込まれていたのだった。

零れる涙が止まらない。不甲斐ない自分への苛立ち、大切な人を失う悲しみ、思い出される日々。
そんなすべてのわたしの感情が、その雫となって落ちていた。
ああ。彰が段々遠ざかって、そしてこの海と空の間に消えてしまうのだ。
その時になって漸く、恐怖を、わたしの中の何かが凌駕した。身体が動く、彰を、彰を――。

だが、あまりにもそれは遅すぎた。

わたしの身体が動き始めた瞬間には、もう、――彰は。
中空にその一歩目を踏み出していたのだから。
「彰お兄ちゃああああんっ!」
わたしは精一杯に喉を震わせ彰の名前を呼ぶと――。
零れる涙を拭う事も出来ないまま、再び地べたにへたり込んだ。

――その、瞬間だった。

――風が、わたしの横を通り過ぎた。

さて、そろそろ地獄に着いただろうか?
僕は閉じたままだった瞳を開き、耳を塞いでいた左腕を離した。
なんだ、意外と綺麗なんじゃないか、地獄って云うのも。
地獄の空も赤くなるのだ。
それなら地獄っていうのは、天国と何が違うのだろうね?
宙ぶらりんだ。僕はどうやら空を飛んでいるようだ。
もしかしたら僕は天国に行ったのかも知れない。
というのも、もしも天国行きだったなら、このように空を飛んでいてもおかしくない。
天国に行くと、人って云うのは天使になるものじゃなかったか。
天使は空を飛べるものだろう? ――間違っているかな?

――僕は小さな溜息を吐いた。
僕が地獄に堕ちるのを邪魔したのは誰だ?
僕の右腕を掴んでいるのは誰だ? 骨が外れたかも知れないな、激しく痛い。
まあ僕は文系だから、落下速度と衝撃の関係を求めるような計算なんて出来るわけがないから、
この痛みが何に由来するかなんて知れない。

ただ、生きているから痛いのだと思う。

「――……」
見上げたところにいたのは。
「――お前、意外と軽いのな」
そう云って笑う――柏木耕一だった。

僕を片腕だけで引き上げた耕一は、はぁ、と息を吐くと、そこに倒れ込んだ。
僕も彼の傍に横たわり、同じように息を吐く。

「どうして、死なせなかった」
息を切らせた耕一を見つめながら、僕は心臓の動悸を抑えるつもりで、そんな言葉を吐いた。
「死なせるのが癪だったからだよ」
僕は彼の目を見る。正気か、と云う目で。
「お前にさんざん切られた。撃たれた。苦しんだ。こんなところで死なせるつもりはない、ってさっき云っただろうが」
「――ばかやろう」
僕は云った。殆ど吐き捨てるように。いい加減横の男が心底馬鹿に思えてきたからだった。
「自分がやられた事、判ってるのかよ。刺されて撃たれて苦しんだんだろう、許せるのかよ。
 いや更に云えば、僕を生かしておくと、お前の大切な妹が傷つくかも知れないんだぜ」
自分を殺そうとした人間を、息を切らせて救い出す。
その人間は、自分の大切な人を傷つけるかもしれない危険人物だ。
「傷つけたら、その時に殺してやる」
まあ、そんな事はないだろうと思うけどな。
耕一は高く高く笑った。

その笑い声が、漸く僕に決心させた。
何度も死のうとして、死にきれなかった。
それならば、
これが僕の運命なのだ。

「あとな、俺はお前を許すと、さっき云ったろ?」
それに、と耕一は続ける。
「俺たちは友達だ」
僕はその言葉を聞いて、少し頬が赤くなるのを感じた。
この男は本当にばかだ。
だけど、僕はひどくひどく、嬉しかった。

――僕は僕自身を許してしまおう。
僕が犯した罪は忘れない。忘れる事も出来ないだろう。
だけど、罪を背負って、それでも、出来るなら、笑いながら。

生きていこう。




「彰、お兄ちゃん」
彼女の声が、僕の傍らから聞こえてきた。
「ばかだよっ……彰お兄ちゃんの、ばかっ」
その表情を見ると、緊張の糸がとぎれたかのように、洪水のように涙が流れ出していた。

「ああ、僕はばかだぞ」
身体を起こして、僕は初音の泣きじゃくった顔を見つめた。
「君を傷つけるだけかも知れないぞ」
僕はその流れた涙の後を指で撫でる。柔らかな頬が暖かかった。
彼女は泣くのを止めて、やけに嬉しそうに笑うと。
「良いよ。――彰お兄ちゃんなら、良いよ」
そう云って初音は、もう一度――その頬に小さな靨を作った。
僕はどうしようもない気持ちになり、――彼女を強く、強く抱きしめた。

七瀬彰。お前は一番大事なものを壊そうとするほどの馬鹿じゃないだろう?
最後までそいつを護ってやれよ。

夕日が背中に突き刺さるように差してくる。
僕は初音を抱きながら、その日の役目を終えて眠ろうとする、赤い赤いその陽を見つめた。
なんていう眩しい空。赤いその色は生命の色によく似ている。
ここはまだ、地獄じゃない。僕は初音にだけ囁くように、小さな声で呟いた。
きょとんとした目で見る初音に僕は微笑んだ。

そうさ、地獄なんてまだまだ遠い。
僕らはまだ――生きているのだから。



【七瀬彰 柏木初音 ――――――共に生存。最後の戦いを前に、ただ今は微笑み合う――――――】

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