偽りの奇跡


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全身の痛みを堪えながらも立ちあがる往人。足元には息も絶え絶えとなった葉子が
腹部から血を流しながら倒れている。
今の葉子ならば、誰でも止めをさす事が出来たが、往人は瀕死の葉子には全く
目もくれず、ただ葉子の足の裏と腹部に刺さっているナイフを引き抜き、
葉子に蹴られたときの落としたシグ・ザウエルを拾い上げると、もうすでに意識は
別のところへと向かっていた。

一刻も早く晴子の元へと行ってやらねばならない。
ただの母親でしかない晴子が、殺意を持った只者ではない二人を相手にするのは
あまりにも危険、いや無謀過ぎた。
往人は、葉子に何度も蹴られた為に襲う、全身の痛みを無視するかのごとく全力で
走り始める。が、すぐに往人は自分の予想が裏切られた事を知る。
往人の眼前には、往人の行方を塞ぐようにして、少年が立ちはだかっていた。

「国崎さん。やはりあなたは、僕達にとって危険な人物のようですね。
それだけの怪我を負っていて、まだそれだけの戦闘力を残しているとは、
思ってもいませんでしたよ」

少年はずっと葉子と往人の戦いを観察していた。そう、この怪しく光るこの二つの
目で、文字通り観察していたのだ。

――自分達にはむかって来る危険人物である往人が、今現在どれほどの戦闘力を
有しているのか。
その戦闘力は自分を脅かすものであるのか。
神奈に侵食されつつあり、ほぼ完全に自分の仲間となった葉子が、どれだけの力を
有しているのか。
そして、葉子との戦闘を行いながらも、少し離れた物陰に隠れている観鈴に
常に気を配っていた往人に隙ができようものなら、一気に殺すつもりでいた。――

この時少年は、郁未一人に任せた一般人の晴子の存在は、全く気にも止めていなかった。

隙を突いて観鈴を殺すという狙いは叶わなかったが、往人と葉子の戦闘の結末を
見届けた少年は、今満身創痍の往人の目の前に立つ。その顔には、この場には
全く似つかわしくない笑顔が貼りついていた。

「このまま生かしておくには、あなたのその戦闘力はものすごく危険です。
まさか今のあなたに、葉子が負けるとは思ってもいませんでしたよ。こんな事なら、
さっさとあなたを殺していれば良かったですね」

口にする台詞とはかけ離れた笑みを浮かべる少年は、なおも続ける。

「でもお遊びの時間はここまでにしましょう。あなた以外にもまだ危険な人物は
いますから。あなた一人に多くの労力を割く訳にはいかないんですよ」

なおも冷たい笑顔を貼りつかせたまま、拳銃を持った右腕を、地面と平行に
なるくらいまで持ち上げた。
照準が、往人の眉間に定められた。

「あなただけに寂しい思いはさせませんよ。すぐにお仲間を送ってさしあげますから」

「……、さしあげますから」

その台詞と同時に、少年はほんの一瞬だけ目線を横へとずらす。その視線の先には、
ここからでは何も見えないが、観鈴が息を潜めて隠れている場所を正確に示していた。

その瞬間往人の心理に、電撃のように動揺が走る。少年の視線が、生死を賭けた葉子
との戦いの中でも絶えず忘れる事の無かった観鈴の存在を、その後にやってきた
少年の得体の知れぬ重圧感の為にいつのまにか失念してしまっていた事実を、
そしてその少年を目の前にして大きな隙を見せてしまった事を思い起こさせた。
考えるよりも速く、反射的に真横へ飛ぶ。飛んだ瞬間、全身を鈍い痛みが襲ったが、
痛みを振り切り、今立っていた場所から逃げ出した。
ほんの半瞬のタイムラグをおいて、少年の銃から放たれた弾丸が、ほぼ正確に
さっきまで往人が立っていたあたりを通りすぎる。
すぐに態勢を立て直した往人が、手に持っていたシグ・ザウエルをしっかりと
握り直し、少年に向かって発射する。

「ぐぅ…」
 
撃った瞬間、はずされた肩に、先程から全身を襲う鈍い痛みとは違った鋭い痛みが
往人を襲い、小さく呻き声をあげる。
痛みに耐えてまでの往人の渾身の一撃が少年を襲う。だが、すぐにその銃弾が
真っ直ぐ往人の元へと帰ってくる。
あまりの常識外の出来事に、往人は全く動く事も出来ず、ただ構えたままの
姿勢で止まっていた。
だが、少年の反射兵器によって弾き返された銃弾は、ほぼ正確に往人に向かって
いったが、往人の左頬の肉を少し持っていっただけにとどまった。

「あれ、おかしいですね。国崎さんの眉間に正確に弾き返したつもりだったの
ですが…。正確にはじき返すには、ちょっと近距離過ぎましたね。それと、
ぼくも体調が万全と言うわけでもないですから、仕方ないですね。
でもまあ良いです。死期がほんの少しだけ遅くなったと言うだけの事ですから」

そう言うと少年は再び往人に向かって銃を向け、すぐに引き金を引く。
だが、跳ね返された銃弾が自分の頬の肉を持っていった際に呼び起こされた
痛覚によって我に帰った往人が、それよりも早く、近くの草叢に飛びこんでいた。
またしても少年の銃弾は地面を撃ちつける。

「くそっ、なんなんだ。銃弾が跳ね返されるなんて非常識にも程があるぞ。
いったいどうすりゃ良いんだ」

人間に対して絶対の武器となるはずの拳銃が全く効果が無いどころか、
逆に自分に致命傷を齎す武器でしかないと言う事実。そして体を動かすたびに
全身に痛みが走ってしまうほどの怪我。時間を追うごとに大きくなっていく
全身の痛み。
状況は、時間を追うごとに往人にとってあまりにも救いようの無いものへと
変化していった。

「ガン、ガーン」
全く打開策の見つからない往人の頭上を、少年が放った二発の銃弾が通り
すぎてゆく。

「あれ、どうもこの拳銃と言うのは、狙ったところに上手く弾が飛ばないな。
上手く撃つにはなんだかコツがありそうだけど、今までの僕にはこんなものは
必要無かったしね。いきなりそんなに上手くは行かないですね。
魔法使いに魔法を使わせないような結界を張って、能力者の能力を封印すると
言うのは良かったのですが…。自分の能力も封じられてしまうというのは
結構不便なものなんですね」
少年は少し考えているようなそぶりを見せた。
往人は、相変わらず絶望しか見えない状況の答えを捜し求めていた。
少年は、懐から偽典を取り出すと2ページ分を切り裂き、破いた2ページを
左手に持つと、残った偽典を再び懐の中に仕舞い込んだ。
辺り一帯が緊迫感に包まれながらも、全く動きを見せないこの状況を変化
させたのは少年の方であった。

「こうも逃げ続けられると困るんですよね…」

これまでと全く変わらぬ笑顔で、往人に聞かせるような大きな声で、全く
困ってもいないような口調で喋り出した。

「まず最初に、一番厄介な国崎さんを殺してから、ゆっくりと観鈴さんを殺そうと
思ったのですけれど…、こうなっては仕方ありません。
観鈴さんの方を先にしましょう。国崎さんはそこでゆっくりと見物していてください」

そう言うと、観鈴のいる方に向かって突然銃を撃ち始めた。
一発、二発と銃弾を観鈴に向かって撃ちこむ。
しかし、少年の視界上には、全く見えていない観鈴には全く当たらなかった。
だが、銃弾が観鈴に当たるかどうかと言う事は、少年にとっては全く重要な
事ではなかった。
観鈴に向かって銃を撃っている時でも、意識は常に往人の方へと向かっていた。
続いての三発目の銃弾が出ない事を確認すると、弾の切れた拳銃を放り投げ、
左手に二枚持っていた偽典の切れ端を左右に一枚ずつ持ち替え、観鈴が身を
潜めている木陰へ猛烈な勢いで走っていった。
突然の状況の変化に、動き出すのが一瞬遅れたが、それでも満身創痍とは
思えないような反応を見せて、観鈴を守るために観鈴の隠れている場所へと
今の自分の限界以上の力を見せて、少年よりも一歩でも早く観鈴の元へと
たどり着こうとする。
少年と往人、二人が向かうその先には、少年が持つ禍禍しい雰囲気に気圧された
観鈴が、ただ呆然と立ちすくんでいた。


「みすずーー」

二人がいた所から、観鈴のいる所までの距離はほとんど同じ。だが、少年と比べて
往人は満身創痍、さらに状況判断の遅れから、飛び出しの時点で少年に一歩先を
許している。
この状況を冷静に判断して、往人が少年よりも早く観鈴の元に辿り着ける確率は、
それこそ奇跡でも起きない限り無理なくらい小さなものであった。
その奇跡を起こさせるためには、観鈴にも往人の方へと寄ってもらうということを
してもらう以外には無かった。
大声を出す事とは無縁であった往人が、腹の底から力の限り前に、立ち竦んでいる
少女の名前を叫びつづけた。
声を出す事に力を奪われた往人のスピードがほんの少し落ちる。しかし、往人の
呼びかけに気がついて顔を向けたものの、参加者の誰よりも感受性の強い観鈴は、
少年の持つ禍禍しい雰囲気に捉えられ、まるで金縛りにあったように動けなく
なってしまっており、今にも泣き出しそうな顔をして、首を左右に振るだけで
あった。
動けない観鈴を見て、一瞬絶望感に取り付かれ、少年の方を見やる往人。
だがしかし、少年の足取りは意外なほどに重い。どうやら運命の女神は往人に
微笑んでくれたようである。
自分のスピードと少年のスピード、そして観鈴との距離を考え、往人は自分の
ほうがより早く観鈴の元に辿り着ける事を確信した。

「観鈴、大丈夫だったか」
「往人さん」

先程の絶望を伴う叫び声と打って変わって、優しく包みこむような口調で、
前に佇んでいる少女の名前を呼ぶ。今までずっと強張ったままの観鈴の顔に、
小さく笑顔が浮かぶ。
そして観鈴の笑顔に、少しだけ勇気を分けてもらった往人が少年と対峙し……。

 
“ザシュッ”

「油断は禁物ですよ、国崎さん」

まだ来る筈の無かった少年の冷たい笑顔が、すぐ目の前にあった。
少年は、最初から最後まで、いかにして確実に往人を殺すかという計算の元に
動いていた。草叢の陰から出てこない往人を効率良くおびき出すために、
観鈴を襲う振りをして見せた。ほんの一瞬だけ往人が先に着く様に、自分の走る
スピードを調節した。そして、往人の注意が一瞬だけ観鈴に向いた瞬間に
トップスピードで往人に近づき、右手に持った硬質の偽典で往人の胸の真中を
貫いた。

奇跡は贋物の、作られた奇跡であった。

「あぐっ」

かっと目を見開き呻き声を上げる。

「往人さん、大丈……」
心配する観鈴の右の胸あたりに、左手に持った偽典が突き刺さる。

「……」
胸を刺され物凄く痛かったが、それでも観鈴は自分の為に身を投げ打ってくれた
往人を想い呻き声一つ上げなかった。

「本当に残念でしたね。もう少しで観鈴さんを守れたところでしたのにね。だから、
やっぱり油断は禁物なんですよ。これからはすべてのことが終わるまで油断は
しないように気をつけてくださいね。
…でももう死んでしまう人には関係のないことですけどね」
「……」
くすりと笑い声を出し、往人の胸の真中を貫いた右手の偽典と、観鈴の右の胸を
貫いた左手の偽典を引き抜いた。



“ザシュ”

「確かに油断は禁物だな、少年よ」
あの時観鈴から受け取ったナイフ。葉子の腹部を刺したナイフ。そして葉子の
血がまだこびり付いているナイフ。
肩が外れてから、とっくに使い物にならなくなっていた右腕。
だが、自分の死を覚悟した往人は、自分の残っていた最後の力のすべてを右腕に
集めるためだけに集中した。
腕をあげた瞬間に来る筈の激痛ももはや感じることが出来ないくらいに感覚が
麻痺していたが、そんな事にはかまわず、少年の額めがけて懇親の力でナイフを
振り下ろした。
少年の眉間にするりと、葉子の血で赤黒く染まっているナイフが滑り込んでゆく。


(くそっ、ぼくはまだこんなところで死にたくない。姫様を復活させるまでは…)

少年の意識が身体からどんどんと遠ざかる。少年の魂は、自分の死を認識する間も
なく、生者の誰もが知らないどこか遠くへといってしまった。


「みすず、大丈夫だったか、怖くはなかったか」
少年の眉間にナイフを刺すことでほとんどの力を使い果たしてしまったが、
それでもまだ、時間を惜しむように観鈴に対して語り掛ける。

「うん、往人さんのおかげで、観鈴ちん大丈夫だよっ」
言葉を発した瞬間、右の胸がずきりと痛んだが、それでも弱音を一切吐かず、
観鈴らしく振舞っていた。
ほんの少しでも力が残っていれば、そして観鈴の姿を見れば、観鈴が傷ついて
いることくらい簡単にわかることなのであるが、今の往人には、後ろを向いて
観鈴の姿を見るどころか、目を開けている事すら困難なことであった。

「そっか、そいつは良かった。……どうやら、晴子との約束は守れたようだな。
でもどうやら俺はもうこれ以上動けないみたいだ」
「往人さん、…どうしてそんなこと言うの」
反論する観鈴の声にも、もう力がなくなってきている。

「これからは、ずっと晴子と二人で生きていくんだぞ。晴子が心配するから、
もう二度と晴子から離れるなよ。あと晴子に一言伝えておいてくれ…」
「…………」
(今まで一緒にいてくれてありがとう。そして迷惑ばかりかけてごめんなさい。
でも観鈴、往人さんのこと、ずっとずっと大好きだよ)

観鈴からの返事はなく、往人の身体に持たれかかってくる。観鈴の体重を
支える力もなくそのまま前のめりに二人して倒れこむ。
それでも往人は観鈴に語り掛けることを止めようとしない。

「国崎往人は確かに約束を守ったと。
……それじゃあ、俺は行ってくるから。
…おまえの顔なんか当分見たくないから、絶対に見せるなよな」

うつ伏せの状態のまま、国崎往人は静かに息を引き取った。その顔には安らかな
笑顔が浮かんでいる。
そして、その上には同じように幸せそうな顔をして、往人に寄り添うようにして
横たわっている観鈴の姿があった。


【少年、国崎往人、神尾観鈴。死亡】
【天沢郁未、神尾晴子、今だ戦闘中】
【鹿島葉子、生死不明】

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