向夏。
「鹿沼葉子ぉ」
初音から離れた高槻は、その筆舌にし難い美少女、天使とでも表現するのが適当か?
その少女を睨みながら、ゆらり、と立ち上がった。
「久しぶりだぁ」
上着を破かれかけ、嗚咽を漏らす幼い少女――初音を尻目に、
「ええ、まったく。それにしても、貴方にそんな趣味があるとは思いませんでした」
そう、心底つまらなそうな眼で、葉子は吐き捨てると、高槻に銃口を向けた。
だが、多分、こんな銃で殺せるほど、彼が脆弱な装備をしていない事くらい想像は付く。
防弾チョッキくらいは着ているだろう。だからこそ彼は、あんなに余裕綽々で笑っているのだ。
まだ距離がある――確実に奴の顔面を貫けるかどうかは怪しい。
それに、運動能力に差があると云っても、装備に於いて言えば、こちらは圧倒的に不利だ。
こちらが近付く前に高槻の持つアレを放たれたら、自分は多分、終わりだ。
慎重に間合いを取る必要がある。そして、そのような場合、拳銃があまり用を為さない事は判っている。
銃では殺せないかも知れないが、逆にこのような原始的な兵器ならば――
片手に持った槍をくるくると回す。そして、矛先を、十数メートル離れた高槻に向けた。
慣れない遠距離武器を持っていると考えるから、動きが鈍るのだ。
銃をスカートのポケットに仕舞う。
――十メートルそこそこなど、私にとって、あいつが銃を引くまでの時間に足らない。
「そこの女の子。こいつは私が殺しますから、その男の人を抱えて逃げると良いです」
声を掛けるが、まるで動く様子はない。腰が抜けてしまったのだろうか。――ムリもないが。
だが、じりじりと後ずさりはしている。高槻も、別にそれに注目しようとはしない。
「余裕だなあっ、鹿沼葉子っ」
かちゃり、と銃を向けて、高槻は笑った。
「貴方こそ。その娘を人質にでもすれば、少しは有利だったでしょうに」
言うと、――高槻は、高く高く笑って、
「鹿沼葉子。お前にはオレは殺せないっ!」
そんな事を言った。
その声に――ある種の確信のようなものがあったから、葉子は不快げにその目を睨む。
「何故? 不可視の力が制限されているとはいえ、貴方一人殺すくらい、訳もないです」
力が制限されていなければ、今の一睨みで、高槻の頭は粉々になっていただろうが、
だが、数瞬後には、結局同じようになるわけだ。この槍で串刺しになっている筈だ。
「もう貴方と話すのも、つまらないです。終わりにしてあげます――!」
言って、葉子が駆けようとした瞬間、
高槻が、何かを懐から出した。
それは、一体、何だったのだろう?
――身体に走るのは、重み。
これは、何だ?
懐かしい重さ。
そう、不可視の力を手に入れる前の、自分の姿。のろまで、力の弱い、ただの女。
「――力がっ」
息を吐く。重い。
高槻の手に持っているのは、
あれは、何だ? 何かの、機械?
完全に制限した。これでお前はただの少女だ。
高槻は、言って――大きく笑った。
そして、今度こそ銃を葉子に向けて、
「グッバイだ、鹿沼葉子ぉぉ!」
――まだっ!
葉子は横に走る。焦点を合わされたら、終いだっ――
のろまな身体。十メートルを走るのにどれくらいの時間がかかる?
少しずつあいつに近付かなくちゃいけない、
槍なんて、今では役に立たないっ――!
拳銃を再び手に取りながら、葉子は息を切らせて走った。
パララララッ!
足下で音がした。
痛みはない、当たっていない!
「そらそらそらぁ! 早く逃げろぉ、鹿沼葉子ぉ!」
心臓の音。
こんなにも心臓が、重い――
パララララッ!
そして、次の音が聞こえた時、
くぁっ――
痛い、痛い、痛い――っ
足の甲を、貫かれた――
木々のブラインドがあるにも関わらず、高槻は異常に優秀な腕で、葉子を狙ってくる。
――動けない。
これ以上動けない、そんな弱音を吐きそうになる。
――まだ、生きている! 戦わなければ、この殺し合いを終わりにするために。
葉子は、きっ、と、その憎たらしい顔を睨んだ。
「足が止まっているぞぉ」
くそっ! まだ、まだだ! 葉子は痛む足を引きずりながら、それでもまた走り始めた。
――奴を殺すには、何処を狙えばいい?
今の自分は、視力さえもずっと落ちている。拳銃など扱った事も殆どないから、狙いが正確に、とまでは行くまい。
だが、狙うは、当然顔面だ。あそこだけは無防備だ。
だが――
「おっと、窮鼠猫を噛む、と言うしなあ!」
――高槻は、背中に担いだ鞄から、大きなヘルメットを取り出し、被った。
これで、何処を狙えばいいか、も判らなくなった。
――ここまで、か。
足に走る激痛も、もう、自分に囁いている。動かなくて良い、結局殺されるんだから、と。
自分はなんて無力なのだ。こんなところで、死ぬのか。
郁未にも逢えなかった。――この殺し合いを止める事も、出来なかった。
不可視の力。それがなければ、生き残る事も出来ないほど、自分は弱かったのだ。
だが、それでも――先の女の子と、青年は、逃げられただろう。もうだいぶ、離れたところに来たから。
「ようし、観念したか、鹿沼葉子ぉ!」
高槻は、高く、高く笑った。そして、言った。
「武器を捨てろぉ! そして、服を脱げっ! ストリップだ!」
「ふ、ふざけないでください! そんな事」
そんな事は出来る限りしたくなかった――尊厳を捨てたくはない。
しかし、案外あっさりと、高槻は引き下がった。だが、状況が好転するわけでもない。
「――まあ、良い。どうせお前は無力だ。強引に犯して殺すのも一興だ。さ、武器を捨てろっ」
捨てなければ撃つぞ? ――そう、言った。
どうすれば、良い? 決まってる。武器を捨てて降伏するんだ。
それで、もしかしたら、生き残らせてくれるかもしれないだろう?
一つだけ、閃いた。完全武装かと思われた、その高槻に、一つ、無防備なところがあった。
その為に、どうすれば良いかな?
決まってる――
銃を遠くに放る。それを見て、高槻は、いやらしそうな笑みを浮かべた。
「そうか! やっとオレのモノをしゃぶる気になったか!」
「嫌です。死んでも、貴方に汚されるのだけは嫌です」
くわえたら、噛み切ります。
頑として、言った。槍を強く握りしめて。
――よし、息は戻った。これで、少しは走れる。
「殺せ。私の顔面を打ち抜け」
だが、今の私の運動能力で、使いこなせるか?
不可視の力を持った、あの少年で、漸く使いこなせたのだろう?
「――ちっ、醒めた、醒めちまったっ!」
もう良いわ、殺すわ、お前。
「まあ、その綺麗な顔は傷つけないで置いてやるよ。ぶっ殺した後で犯してやるから」
死姦でも充分だあ! お前は綺麗だからなあ!
五メートル。――
――そう云って、高槻は銃口を、自分の心臓に向けて、
あっさりと、引き金を引いた。
そして、その数瞬前に――葉子は、腹に入れておいた、――少年から譲られたモノ。
それを心臓の前にかかげた――
これの耐久性がどれ程かは知らぬ。だが、賭けるしかない。
高槻は、それが何だったか判るのだろうか?
引き金を引くのを止められなかった。彼は、小銃を引いてしまった。
それが、反射兵器。常識では考えられないような、兵器だったのだ。
銃弾の衝撃が、その薄っぺらいものに集中する。
そして、それが不思議な音を立てて、何処か別の方向に弾かれていくのも。
限界だ、これは多分もう、使い物にならない!
一発か二発、それを貫通した音が聞こえた。
肩口に銃弾が当たる。だが、それは左肩だ!
「なっ――!」
数発が、高槻の方に返っていくのが見えた。
跳ね返ったそれが、都合良く当たる、というわけにはいかなかった。
だが、それでも充分だ。
五メートル。槍を強く握り、葉子は駆けた。
これが最後のチャンスだから。
高槻のクローンは他にもいる、だが、こいつだけでも、殺すっ――!
狼狽した高槻は、――銃を取り落とした。
葉子は、その手に握りしめた槍を、――ヘルメットと、防弾チョッキの間。
首元に、差し込んだ。
ここだけが、唯一の急所だ。
肉が弾けるような音がした。
真っ赤なモノが、降りかかる。
「――っ、くそぉぉぉ!」
高槻の咆吼。
あるいはそれは――断末魔か?
空気が漏れるような音。
それは、血の流れる音だ。
多量の噴水を見せてくれた後、その高槻は果てた。
「――はぁっ」
葉子は、息を吐いた。
弱いままの姿でも、私は勝てた。
不可視の力無しで、――予想だにしない武器を使ってとはいえ、勝った。
小銃もある。
なんとかなるかも知れない。
自分がすべき事、ここから帰るという目的は、為されるかも知れない。
不可視の力無しでここまで戦えたのだから。