策士
「この下。どうなってるんだろう?」
目の前にあるのは隠し階段。ぽっかりとその口を開けて彰を中へと誘っている。
彰はその好奇心を持って一歩を踏み出した。
奴は落ち着かない。
同族の女の香り。これほど喜ばしいものはない。
しかし奴は忌々しげに床を叩いた。彰の理性の檻。その床を。
力が足りぬ。
完全に表に出られるのならそれでよい。人間の理性に働きかける結界など、奴にはほとんど意味は無い。
本能で動く。本能で身体を動かす。本能で犯る。本能で殺る。
身体を乗っ取る程度でもいい。人間の力に毛が生えた程度のだとしても、奴には狡猾な頭脳がある。
だが失敗した。依然として檻の中だ。
犯れぬ。同族の女を見つけてもこれでは犯れぬ。
なんとか『彰』には堕ちてもらわねばならない。
そのためにも、まずは犯りやすい。殺りやすい相手の豊富な診療所に戻るのが得策。
しかし意外だった。同族の女が他にもいたのだ。しかも熟成しているとみた。
なら未成熟な初音など、『彰』を堕とすために犠牲にしてもかまわぬかもしれん。
しばらく進むと明らかに人工物とわかる空間に出た。
清潔感のある白い壁。規則的に天上に張りついている電灯。
スプリンクラーに消火器。非常ベルらしきボタン。
なんともどこぞの大病院か研究施設のようだ。
冷房まで効いている。この島にあってなんとも豪華な。
彰が読む推理小説に、秘密の研究所などというチープなものは登場しなかった。
が、子供の時にTVで見た記憶から、ここを見てそう思わずにはいられない。
「つまり、あの施設の裏口ってとこかな…」
耕一が存在を予測した裏口のひとつ。場所もほぼその通りだった。
彰も作戦会議の中身をあとから聞いていた。耕一の推理力に少しばかり闘争心を燃やしたのを思い出す。
この場所を耕一に知らせた時の得意げな顔が目に浮かんだ。
(耕一さんか…)
初音のお兄さん。実際の兄妹ではなく義兄妹らしい。
――耕一お兄ちゃんが、髪が短くて、すごく逞しい身体の、優しい人
――耕一、という男の名前を出した時、不自然なほど明るい声になった。
――多分、初音ちゃんが好きなのはその耕一という男なのだろう。
あの時の映像が浮かぶ。
黒い物が沸いた。
心の中にドロドロとした物が鬱積していくのがはっきりと分かる。
頭が、考えてはいけない事を勝手に考え出す。
(初音の心は本当に僕のものなのか?)
彰は自分を見る初音を思い起こす。
(あ…れ?)
その目はちゃんと自分を見ていた。
はず。
気がする。
気がした…。
だろう。
だといいな…。
いきなり自信が無くなった。
急激に愛し合った男女。その男など、一時でも離れてしまえばこうなってしまうのかもしれない。
彰の足が階段に向く。
人を操るのにたいした『力』など必要無い。
なにもかも、人の心を流し動かす策士の技なり。