産声。
そこに立ちのぼっていた土と雨が混ざった匂いが不快だったので、七瀬彰は思わず眉を顰め、
その果てなく立ちこめた暗雲と降り注ぐ雨に耐えながら、何処かの道を歩き出す。
道とも云えぬ道、森の中を最短距離で抜けようとするその行動には果たして冷静な思考があるのかどうかすら判らぬ。
だが、彼の身体を支配しているのは多分まだ彼自身であったし、
ある種の意志が確かにある事にかわりはない。
自分が愛しいと思っていた人、果たしてその愛しいという感情が正しいものだったのかどうか。
そもそも自分はすぐにその愛しい人の元に帰ると約束したのだ。
あそこを旅立ってからどれ程の時間が流れたか、正直見当も付かない。
長瀬祐介と天野美汐、二人に結局会う事が出来なかったのだ。彼らは本当に素晴らしい二人だと思ったのに。
やはり一緒に行動するべきだったのだろうか。後悔しか残らない。ひどく悲しい事実だった。
なのに、彼らの死を告げる放送を聞いても、まるで涙が流れたなかったのはどうしてだろうか。
それが彰にとってひどく不可思議に思えた。
森の雨は傷ついた脳髄にはひどく重い。冷たく濡らされていく世界が不愉快過ぎた。
ずきりと痛む頭を抱えながら、彰は小さく息を吐く。防弾チョッキも拳銃も持っていない、
なんとなく手に取ってきたこの小さなナイフを右手に、それでも不思議と「安全」を何処かに感じていたのは、
ただもう殆ど敵もなく襲撃もない、そんな直感だけが由縁なのであろうか。
今は考えていても埒があかない。歩みを止めていても診療所への距離が近くなるわけではないのだから。
彰はその曇天の下、また歩き出す。
それを、鬼、と便宜的に名付ける事にしよう。
今、七瀬彰の脳髄を侵蝕している鬼が希っている事は、今彼が巣食っている彼をどうにかして堕落させる事だった。
人間という生き物は、割と簡単に堕落するものだ。そう、鬼にとって、まるで理解出来ないような出来事で堕ちる。
それにとって大切なものを傷つけるか、或いは人間の法意識の元、罪意識を負わせるような事を行うだけで、
簡単に堕ちてしまうのだから、人間とはつくづくおかしなものである。
今は潜むだけで構わない。その鬼はまだ産声を上げたばかりの赤子のようなものだ。
彼の本能を多少なり刺激するだけで事は成し得る。ならばそれが必要以上に出張る必要はないのだ。
だから、鬼は彰の本能の底に語りかけ、そして、またも眠りにつく。
赤子には睡眠が必須なのだ。それは人も鬼も同じ事だった。
ふと彰が歩みを止めたのは、その雨足が多少強くなってきていたからだった。
雨宿りも良いかも知れない、と思い、何処か適当な木陰を捜し、彰はへたり込む。
泥の色をした水溜まりの前に座り、そこから起点する小さな流れを見つめながら、彰は小さな息を吐く。
考えてみれば、診療所を飛び出してからの自分は、どうもおかしかったような気がする。
ここに至って漸く、思考が多少なり落ち着いてきたような感じがあった。
森の深くからその曇天の空を見て彰が思い出した事は、三年前――自分が未だ高校生だった頃の事だった。
あの頃から貧弱で読書家だった自分にとって、雨というものがひどく喜ばしいものだった事を思い出す。
というのは、雨が降っていれば、無理に外出する必要はなかったからである。
冬弥という活発な友人の事は心底好きだったし、彼に連れられて町中で遊んだりする事が嫌だったわけではない。
彼が連れて行くところで楽しんでいる自分を確かに知っている。
だが、雨が降ると確かに心が穏やかになる自分もまた、彰は知っていた。
晴れた日に図書館に行って借りてきておいた本を、雨を横目に感じながら読む事が好きだった。
そんな日には冬弥やその他の友達も声を掛けてこない、という事に、多少なりの安穏を覚えたのは、
やはり自分は、本当は外出が嫌いだったから、なのかも知れない。
あの日も雨が降っていた。美咲先輩と出会った日の、あの休みの日の事だ。
何故あの日自分が朝っぱらから雨の中図書館に行こうと思ったのか、今でも理解し得ていない。
そんな事の理由を考えても仕方ない、と思えるようになったのは最近だった。
様々な現象の理由について考える事はあの頃の自分にとって日常茶飯事だったが、
結局考えから導き出される答えに一貫性などなく、そして明確な定義もなかった。
今になって思えば、文学少年の定義とは、何も定義出来ないくせに何かを定義したがる頭でっかちの、
それでいて何も知らない無知な人間、と云えるかも知れないと思う。
その定義の元で、自分は間違いなく文学少年の範疇にあった。
ともかく自分はあの日、雨の中で、図書館の前で一人佇む澤倉美咲の姿を見たのだった。
黄色の傘と真面目に着こなした制服、そして澤倉美咲という人間が雨の中に同時に存在している、
その情景はあまりに美しく、彰にはそれが一つの芸術作品のように見えた。
美咲先輩はあの当時から有名人だったが、対して自分は、下手をしたらクラスメイトにも
名前を覚えられていないかも知れないそんな学生で、自分と彼女はまるで正反対の性質の持ち主だった。
彼女も明るい方ではないとは聞いていた。性質の点で言えば、自分と彼女は似通っていたと云えるかも知れない。
だが、色々な面で、彼女はスターで、自分は惨めな乞食だった。
彼女が書いた文を読んだ事がある。――なんて、綺麗な、優しい文章だろうと思った。
自分とは、まるで別世界にすむ人間だと思っていた。
だから、その日立っている彼女を見た時、彰は少なからず動揺したのである。
市立のその図書館は雨の中閑散としている。――というか、誰もいなかった。
流石にこんな雨の日にわざわざやってくるような人間は少ない、と言う事だろうか?
まあそれは仕方ないにしろ、では澤倉美咲はここで一体何をしているのだろう?
自分の姿に気付いたのだろう。傘を少し揺らせて美咲先輩は振り向いた。
考えてみれば、それが彼女が最初に自分にだけに微笑みかけた瞬間で、そして自分が彼女に惚れた瞬間だったのだと思う。
「あなたも、時間間違えたの?」
少し笑って言う美咲先輩の声を聞いて、彰は漸くにして自分が時間を間違った事を悟ったのである。
それが縁で、自分と美咲先輩、ひいては冬弥、由綺、はるか。その仲間達の円が出来た。今はもうない円が。
縁とは不思議なもので、些細な事から始まる場合が殆どだ。
いや、些細な関係からでなければ、そもそも縁など生まれるはずがない。
いや、些細な関係からでなければ、そもそも縁など生まれるはずがない。
あの雨の中、自分が外に出ようと思わなければ、この縁は生まれなかった。
美咲先輩と過ごした日々がなければ今の自分はなかっただろう。それを思えば、あの日の自分の行動には、
やはり何かしらの意味が存在していたのかも知れない、と、今更になって思う。
――何故そんな事を今更思い出しているのだ、何故。日常は変わりゆくものだと認識したはずではなかったか?
日常とは変わりゆくものであるから日常なのだ。あの日と同じ日常など存在するわけがないのだ。
吹っ切れたはずなのに、何故、何故?
その理由も判らない。そうさ。理由がない理由を求める事など不可能に近いではないか。
雨。
僕の日常には、常に何処かしら雨の匂いがあったような気がする。
雨が僕の日常の象徴だったのだと、今になって僕は悟る。
激しい雨と雷の音。まるで雨足は緩まる様子がない。
木陰にいるとはいえ、雨は今も容赦なく自分の身体を濡らしているし、
ならば出来る限り早く出発した方が良いのではないか。建物の中で休みたい。初音にも会いたい。
そう、今、自分が守らなければいけない人。早く帰らないと――そう思った、その瞬間。
彰が雨の影の奥に見たのは初音と同じような色をした髪の、少女だった。
多少なり足を引きずりながら歩いている、あの彼女は――
「鹿沼、葉子」
こんなところで何をしているんだ、彼女は?
彰は立ち上がると、その影が向かった方に足を向け、泥水を跳ねとばしながら走り出す。
その行動に、彰の意志はまるでなかった。
彼女は手負いの獣だ。
今はきっと初音よりもずっと弱い。
ならば、護衛がいて戦うのに有利とも思えない初音を襲わせる事もない。
人を堕落させるのには二つの手段がある。一つは大切なものを奪う事、
もう一つは、罪悪感に貶める事だ。
彰が走り出したと殆ど同時に、「象徴の」――雨は止んだ。
【七瀬彰 診療所に戻る前に手負いの鹿沼葉子に向け、走り出す。以下どうなるかは不明】