fluff
七瀬彰は獣のような慎重さで、葉子の死角に回り込んだ。
そしてことさらに、慎重に、慎重に、近付く。
そうだ。いいぞ。
一瞬で決めろ。
自分以外の、他者の、意識か。それとも、自らの渇望か。
無力な牝を、襲い、屈伏させ、侵略する。
僕は、何を。
ようこさん。と言っていた。
葉脈の葉だったか、太陽の陽だったか。そんなどうでもいいことに意識がふと向いた。
僕は……僕は……戻らなくてはいけなかった筈。
何処だっけ。
そこには、僕の――
誰だっけ。
まあ、いいさ。
そう。今は集中すればいい。もう少しだ。もう少し近付いたら、僕は一気にキめる。
そうとも。今は、目前のエモノにだけ集中しろ。
まずは一人。お前の力でもぎとってしまえ。
その牝の、体を奪え。心を犯せ。
次々と蹂躙を繰り返せ。そしていずれ。
俺と。
僕は。
一つの、鬼になるために。
じわり、じわりと、彰は葉子に近付く。
そして、一気に躍り出る。
今までの追跡で、葉子の体の状態も大体分かっていた。
この女は、消耗している。
もう、この牝は、俺から逃げられぬ。
俺の、
僕の、
勝ちだ。
葉子は突然現れた人影に驚き、とっさに身構える。
ななせ、あきら。
たしかそう呼ばれていた。あの診療所で、たしか見た顔。
彰だか、明だか……でもそんなことは、もう関係ないようだ。
「あなた、誰」
目の前に居る若者。
多分あの時、あきらと呼ばれていた男。
しかしその雰囲気も、なによりも眼光が。
とても、人間とは思えなかった。
だから葉子は訊いた。
「あなた、何者」
あなた、誰、だって?
まあ、知らなくても無理はないか。
だってそこでは、僕は、――と。
――出てこない。もう一度考える。
たしか、僕は、――ちゃん、と。
いかん。まずい。目の前に集中しろ。惑わされては駄目だ。
そうだ。まずはお前の目の前にある牝を。
僕の目の前にいる彼女を。
お前の手で奪え。侵し、服従させろ。
そうだ。僕にはもう、なにもないから。
美咲も。祐介も。
だから、奪っても、誰がそれを非難する。
彰は獣のような素早さで、葉子の手を凪ぎ払う。葉子の最後の、縋るべき武器が弾かれる。
葉子はそのはずみで、腰から地面に叩きつけられる。
彰はその上に、容赦なく乗りかかってきた。
まずは両手を抑えつけ。
そうだ。
腰の上に体重を乗せる。
そうだ。それでいい。
葉子の左手を抑えたままの手を、葉子の顔に持っていき、顎を無理矢理こじ開ける。
そして、まずは唇を犯す。
彰の舌が、葉子の口腔を犯す。
初めてにしては、上出来だ。そのまま、そのまま、慎重にいけ。
手負いの獣は、一瞬の隙をついて逃げ出すものだ。
……暖かい。
ひとの、体温だ。
――とは、少し違う暖かさ。
そう。僕と、――も、確かこうして、お互いの体温を確かめあった。
僕と、初――
葉子を征服しようとした、彰の力が、一瞬、緩んだ。
無論、葉子はそれを逃さなかった。
がりっ。
「!!!!」
声にならない叫びをあげ、彰は跳びのいた。
野郎、舌を噛んだ。
幸い、たいした傷ではない。
しかし、驚きのあまり、葉子への戒めを解いてしまった。
まずい。
(僕は……何を……僕は……初――)
いかん。
今はまずい。落ち着け。まだ間に合う。急いで奴に飛びつけ。奴の武器に、手が届く前に。
しかし、彰は、葉子をどんと突き飛ばし、そのまま森の奥へと駆け出して行った。
遠くへと。少しでも遠くへと。
――ちっ。失敗したか。臆病者め。
まあいいさ。じっくり、決めてやる。
「初音」の存在が、こいつの枷になっている。ならば、どうしたらいい?
忘れさせればいい。
あまり、力を、使わせる、なよ。
彰はいつしか、駆け出すことをやめた。
歩みがのろくなると同時に、彰の頭脳も急速に鈍くなっていった。
自分が。
なんのために。
ダレノタメニ。
ドコヘ。
そんなことも、考えるのが億劫になっていった。
彰の中にいる、鬼の干渉。彰の意識はぼやけたものになっていった。
視界の全てが、モノクロームで構成されていった。
あまり、消耗させるなよ。
早いとこ、誰かをモノにしないと。
こいつを早いとこ、ケダモノに堕とさないと。
こいつは、俺に、勝ってしまう。
俺は、こいつに、負けてしまう。
葉子は、どうやら、難を逃れた。
とりあえず銃を拾い、身構える。
周りに他人の気配がないことを確認すると、とりあえず近くにあった大きめの木の下に移動する。
多少周りの見通しがよくなったし、一応背中を守れる。
今の青年。診療所では、あきらと呼ばれていた青年。
普通じゃなかった。あの目はまるで、獲物を襲う獣。
ただ、葉子の一瞬の反撃の後、「正気が戻った」ように見えた。
何らかの力の影響をうけて、彼はおかしくなっていた?
もしかしたら、不可視の力。
いえ、それはたぶん違う。私を蝕むこの疲労と倦怠感がなによりの証拠だ。
不可視の力が万全なら、あのような遅れを取ることもなかったはず。
人の能力が制限されるこの島で、発現しえる力とは――。
今更ながら、自分の危険を再確認し、葉子は身震いした。
幸い、たいした危険といえるものではなかったが……
ともかく、危険は去ったようだった。
さて、これから、どうする。
そんなことを考えるのすら、今の葉子には、気の重い仕事だった。
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