蜃気楼の島
ゆらり。
ゆらり。
晴香の目の前の景色が揺れる。
それは突然だった。
激しい雷雨を伴った曇り空の中、光の柱が天に向けて迸る。
光柱は雨粒を呑み込み、黒雲を貫き、そのまま高く高く……空の果てへと消えていった。
そして、その光の柱が貫いた場所から、次第に雲が晴れてゆく。
「……な、なによ、今の?」
七瀬の狼狽した声が、晴香の耳に入ってくる。
光の柱というものが非常識なら、それによって晴れてゆく雲も非常識である。
非常識な晴れ。
晴。
「……ねぇちょっと、晴香ってば……晴香?」
七瀬がやっと、異変に気づく。
その顔は、ぐにゃぐにゃと歪んで……まるで、牛乳瓶の底を通して見たかのようで。
晴香の目に映るもの全てが、理不尽に、しかし彼女にとっては自然に歪んでいた。
「……な……ナ……せ……!」
「晴香! ちょっとしっかりしてよっ! 晴香!」
声が上手く出せない。
足元がふらつく。
いや、ふらついているのは晴香自身ではなく世界の方。
ゆらゆら、
ゆらゆら。
晴香の意識が、徐々に混濁していく。
まるでそれは。
自分が、半分になってしまって。
残った半分だけが、全部に広がって。
記憶が、半分に薄まったような。
そんな、不思議な感覚。
「…………あ……」
不意に、視界が元に戻る。
宙に浮いたような、ぼんやりした感触の中で。
その女の子は、自分が誰なのかを必死に思い出そうとする。
み……巳間、はる……晴香
みま、はるか。
そうだ。私はみまはるか。
……それじゃ、私の目の前にいるこのお姉さんは誰だろう。
なな……七瀬。る……留美。
ななせ、るみ。
そうだ。ななせだ。七瀬だ。
その名前が思い出せたこと、それだけのことで無邪気に喜ぶ晴香。
だが、体は動かさない。
心の中で子供のようにはしゃぎ、身体は薄笑いを浮かべるだけ。
……神奈の浸食は、やはり不可視の力の使い手である晴香にも影響を与えていた。
じわじわ、じわじわと、本人にも知られない程に自然に進む浸食。
それが半分ほど進んだ頃に……神奈は、消えた。
浸食が進んでいた、晴香の半分を巻き添えにして。
「ちょっと晴香、どうしたの……? 確かに今の光は変だったけど、私たちも早く学校に……」
「ねぇ、七瀬」
「……なによ?」
まるで子供のような純粋な笑顔で晴香は微笑むと、たたっ、と突然森の方に駆け出した。
「鬼ごっこ、しよ?」
「ふぁ?」
あまりに突然の提案に、乙女らしからぬ間抜けな返答とともに開いた口を閉じられない七瀬。
「鬼ごっこって……ちょっと、晴香!?」
「ほら、早く〜。だ、け、ど、捕まらないよーだっ」
七瀬が呆然とするうちに、晴香はどんどんと彼女から離れていってしまう。
少ししてようやく我に返ると、七瀬は慌てて晴香のあとを追って走り出した。
「晴香……どうしたっていうのよ!」
「……………………」
狂気が服を着て歩いていた。
その眼は虚ろで何も見ていない。
その口元はだらしなく緩み、こぼれ落ちる涎は拭かれることもなくとめどなく流れている。
フランク長瀬と呼ばれる存在であったその狂気は、空に立ちのぼる光の柱を呆として眺めていた。
彼の望みは、彼の甥であった長瀬祐介の敵を討つこと……で、あった。
その対象は少年であり、そのために彼はどのようなことでもする決意を固め、そして実行した。
……結果として、彼の心が壊れ、目的が次第にゆらぎ、変化していこうとも……。
もはや彼が、それに気づくことはないのだ。
(……俺は……そう、俺は敵を討たなければならない)
狂気が歩く。
(この殺し合いは、俺の大事なものを奪っていった)
狂気が歩く。
(だから俺はそれを取り返す。このふざけたゲームの参加者を……全て、殺す)
狂気が、歩いてゆく。
地の果てまでも。
彼が見る願いはひとつの蜃気楼。
それは、ゆらゆらと、いつまでもゆれていた。
「……畜生っ! どこだっ! どこだっ! どこにいやがるっ!!」
梓は森を駆けていた。
限界などとうに過ぎている。だが止まるわけにはいかない。
ヤツだけは、絶対に許さねぇ!
どこまでだって追いかけて、この手で引導を渡してやる!
楓が死に、初音が死に、千鶴が、そして耕一も死んだ。
梓はただ一人、悲しみをと苦しみを吹き飛ばすように走っていた。
あたしだけが生き残って。
こんな島で、こうして走り回っている。
みんなみんなみんなみんなみんなみんなみんな……死んでしまった。
あたしは、だからみんなの敵を討たなきゃいけない。
……あたし以外はみんな死んでしまったから、残っているのはみんなを殺した敵だけだ。
「おおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
咆吼が、島中に響きわたる。
誰も信用できない。
人なつっこく懐いてきた女の子だって、夜中にあたしの首を絞めてきた。
やらなきゃ、殺られる。
……だからみんな殺された。
たとえ知り合いの格好をしていたって騙されるものか。
変装して、またいつ襲ってくるかわかったものじゃない。
……第一、みんなもう死んだんだ!
神奈が梓に見せた幻は、二人の妹を無くした衝撃によって摩耗しきっていた彼女の精神を、
壊れるギリギリまで追いつめていた。
現と幻。
それを判断するだけの判断力は、今の梓には残っていない。
……また一人、死んでいた。
……木陰に死体が転がっている。
死と隣り合わせのこの島で、彼女はただ走り続けることしかできない。
蜃気楼のような、このふざけた薄っぺらい嘘だらけの島で。
誰かを見つけ、そしてその息の根を止めるまで……。
【晴香、神経衰弱状態】
【フランク、明確な狂気に】
【梓、神奈の呪縛から逃れられず】
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