覚醒


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深い茂みの中を、かれこれ10分ほど掻き分けながら進んでいた柏木耕一(019番)は、
前方の大きく開けた場所に辿り着くと、殺していた息を慎重に、すべて吐き出した。
そこは一面、湖だった。
「水も比較的、綺麗だな。これなら使えそうだ」
耕一は、辺りに人の気配が無いことをもう一度確認すると、左手に持っていたディパックを足下に降ろし、自分も草むらに腰掛けた。

耕一は当初、当然ながら従姉妹の4姉妹と行動を共にするつもりであった。
――スタート地点がバラバラになるまでは。
耕一は「II」とペイントされたトラックに押し込まれ、他の4姉妹は……わからない。
苗字が同じだから合流も簡単だ、というささやかな希望もあっさりと絶たれたわけだ。
「千鶴さん…、梓…、楓ちゃん…、初音ちゃん…」
みんなは大丈夫だろうか。
ホールに全員が集められていたとき、近くにいた千鶴さんが耕一に囁いた言葉――
「力が…使えません」
現に、耕一も何度か試していたことだった。
もしも力が――鬼の力が封じられていなければ、生理的悪寒しか引き出さない、下卑た笑い声を発する高槻も、周りにいた同じような顔をした連中も、10秒後にはタンパク質の塊になっていただろう。
「きっとみんな、不安で怯えている。俺が…俺が守らなきゃ」
自分を奮い立たせるように、何度も何度も呟く耕一の耳に、ふと、
ぽちゃん、という音が微かだが届いた。

「……?」
音は湖からだ。
顔を上げると、水面がゆらゆらと揺れている。
魚でもいるのか、そう思った耕一は、それが貴重な食料になることに気付いて水辺に歩み寄った。
まず視界に入ったのは、水底を漂う黒い塊。
それが何であるか、を耕一が思考するよりも早く、それは猛然と耕一に襲いかかった。
「っ!?」
声を上げる暇もなく、次の瞬間には耕一は頭から湖に突っ込んでいた。

なんだ……なにが起きた…!?
思っていたよりも深い、湖の底で、耕一は必死に状況を把握しようとしたが、それよりもまず第一に優先すべき事があった。
空気だ。
水泳の選手が入念な心構えの元、湖に飛び込んだなら話は別だが、今はあまりに唐突だった。
耕一は僅かな、本当に僅かばかりの空気を、肺から逃さぬように口と鼻を手で覆った。
上だ。
上に行かなければ、俺は死ぬ。
生き物の本能に突き動かされ、耕一は必死にもう片方の腕と両足を動かした。
しかし、湖面から進入する陽の光を求めるように昇る耕一の眼前に、突如、絶望が立ち塞がった。
黒い塊――違う、それは人だった。

顔面蒼白になって昇ってくる耕一を見下ろす形で、岩切花枝(008番)は腰の短刀をすらりと抜いた。
彼女もまた、封印の力によってその戦闘力は著しく落ちていたが、もともと水中は自分にとって庭のようなものだ。
呼吸というハンデを背負った相手なら、赤子にデコピンするよりも楽に始末できる。
耕一が昇ってくるのを悠然と待ちかまえながら、岩切は射程距離でその短刀を横に払った。
瞬間、耕一は身を捻ったものの、所詮、水の中では大した動きもできなかった。
短刀は耕一の胸を真一文字に切り裂き、続いて両者の間の水が驚くべき速度で赤く変色した。
それでも耕一は、極めて鈍い速度で岩切に手を伸ばしたが――
どすっ、と左手に握られた2本目の短刀に手の甲を貫かれ、耕一は深い湖の底へと再び沈んでいった。

俺……。
自分の身体が湖の底に着いたのを静かに感じ取りながら、耕一は僅かに残った思考を巡らせた。
俺は死ぬんだな……。
耕一はその事実に恐怖したが、それよりももっと強い感情が耕一を支配した。
千鶴さん…、梓…、楓ちゃん…、初音ちゃん…。
自分は彼女たちを守らなくてはならない。
それなのにこの有様は何だ! 不甲斐ない!
柏木耕一っ! お前も男なら、大切な女ぐらい守って見せろ!
どくん…、身体が脈打った。
力だ、力だ、力だ、力だ、力だ、力だ、力だ、力が必要だ。
どくん…、鼓動がリズムを刻み出す。
鬼の血よ、俺はお前が必要だ。
どくん…どくん…、身体の周りの水が、熱で揺らめきだす。
アアアアアアアアアアァァァァァッ!!

1分ほど水底の様子を見ていた岩切は、男が再び昇ってこないのを確認すると、水面へと身を翻した。
あと2メートル、という所で、岩切は突如、自分に向かって凄まじい勢いで突っ込んでくる存在を湖底から感じ、振り向いた。
振り向いたときには、それは目の前にあった。
圧倒的質量で岩切を飲み込むと、そのままの勢いでそれは湖面から飛び出した。
車にはね飛ばされたような衝撃を受けた岩切は、湖近くの巨木に身体を強く打ち付け、停止した。
「う…はっ…」
折れた肋骨が何本か、内臓に達したようだ。
口からは空気と共に、血も吐き出された。
それでも懸命に状況を把握しようと見開いたその目が、さらに大きく開かれる。
それは……人ではなかった。

もちろん、岩切が見たのは柏木耕一、その人であった。
姿形も、普段のそれと変わらない、あえて言うなら全身びしょ濡れで上着が横一文字切り裂かれているぐらいで、あとは只の人間だ。
しかし、それに対峙した岩切には判ってしまった。
それがヒトの皮を被ったバケモノであることを。
「ガあアぁァ゛…」
“それ”が声を発した、ヒトではない声を。
岩切は恐怖した、自分に迫る、絶対的な「死」に。
「くっ、来るなぁぁぁぁっッ!!」
懐に仕舞っておいた支給品のソーコムピストルを素早く抜き出し、相手の眉間にポインティングする。
間髪入れずに引き金を引――

引いたときには、耕一は岩切の頭上に跳んでいた。
岩切の手元から発射された弾丸が、耕一の背後の木に命中するまでの軌跡を視認した後、耕一は岩切がもたれ掛かっている木の側面に“着地”した。
岩切は耕一を完全に見失っている。
その岩切めがけて、耕一は自由落下するよりも速く、木の表面を駆けた。
岩切が上に気付いて頭を上げることは…最後までなかった。
がくん、と岩切が頭を揺らし、そのまま横に倒れた。
首の骨を折られ…即死だった。
耕一はその作業を終えると、しばらく辺りの気配を探り――
そのまま力尽きたように前のめりに倒れ、深い眠りに落ちた。

【残り91人】

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