森の出会い
少年は、往人と分かれたあともなお森を闊歩していた。
先ほど流れた放送は、何名かの死を告げていた。
郁未はまだ生き残っているようだ。
それだけを確認して、少年は前に進んだ。
右肩にずっしりとした重み。
まだ一回も開いていないこの鞄だったが、
これをあけずにすむならどんなにいいか、
そんなことをつい考えてしまった。
北上しているつもりだったが、
磁石があるわけでもないので確証はもてない。
しかし、”スタート地点”の位置を考えれば、
おそらくこの方向であっているはずだった。
あたりは静かだった。
静かだが、確実な歩み。
そう思うと、この狂った環境でも不思議とやる気が沸いてくるものだ。
そんなことを考えつつ、十分ほどの時が過ぎる。
先ほどから視界に入るものといえば、
鬱蒼と生い茂る木々だけであった。
耳に入るものと言えば、
微風にざわめく葉の摩擦音だけのものであった。
だが明らかにその均衡を破る不和が分かった。
荒い吐息だった。
誰かが近くにいるようだ。
これはどうすべきかな……、
少年は少し迷った。
手負いの人間が相手になるのは避けたかった。
特に、一般人であればあるほど錯乱しやすいものだ。
そしてそれ以前に、無駄な戦闘は極力避けたかった。
歩みを止めてはいなかったので、
とうぜんその声の主へとどんどん接近していた。
当然呼吸音もより精密に聞こえてくる。
……おや?
どうも違う。
錯乱状態や極度の緊張から来るものかと思ったが、
それにしては呼吸が激しすぎる。
あからさまに痛みと苦しみを訴えている。
そしてそれに混じったかすかな音声……。
女の子だ。
少年は特に気づいた様子も見せず、自然体で進んでいく。
するとちょうど見えてくるその呼吸の主。
脇の方でうずくまっている女の子の姿。
056番立川郁美だった。
その様子を一目見て、少年は彼女が心臓を患っているのが分かった。
「……これはほっとけないね」
郁美に接近する少年。
だがよほど苦しいのか、彼女はそれに反応できない。
「大丈夫……じゃないね、とりあえずここにいてもしょうがない。
移動させてもらうよ」
そういうと彼は鞄を肩に引っ掛けたまま、器用に郁美の事を抱き上げた。
「ちょっと揺れるかもしれないけど我慢してね、
といってもそんなこと考えている余裕無いか……」
見た目に似合わない腕力だった。
郁美の鞄ごと抱き上げているというのに、
少年はまったく重たそうなそぶりを見せなかった。
そしてそれまで向かっていた方向ではなく、横道にそれて歩き出した。
ざっざっざっざっ……。
それまで聞こえなかった彼の足音が、
今は水を打ったような静けさの森の中に響いていた。
郁美の荒すぎた呼吸も、その様子を少しずつ穏やかにしていった。
「少しは収まってきたか……、発作だったのかな」
「……ハイ」
か細い声で、郁美は彼の独り言に返事をした。
「……大丈夫なのかい?」
「いつもの……ことですから」
儚げな微笑を浮かべる郁美。
少年はいつもの通りの笑顔で返した。
「薬はあるかな? 調合しようかとも思ったけど発作なんでしょ?
だったら常備薬みたいなのがあるよね」
「ハイ……、たしか、私の鞄の中に……」
言いかけて郁美ははっとしたような表情をした。
「私、鞄を忘れてきたかもしれません……」
「それならここさ」
少年は腕下に下がる鞄を示して見せた。
「よかった……」
郁美は安堵した表情になった。
「こっちの方に、たしか学校があったはずなんだ」
「そうなんですか?」
「うん。そこに行けば保健室が使えるし、水道も確保できる。
ガスが生きていればお湯も沸かせるかもしれない。
少なくとも、森の中よりはいいかと思ってね」
まあうろ覚えなんだけどね、と少年は屈託なく笑った。
「ふふっ」
郁美もつられて笑ってしまった。
この島にきて、はじめて安心感を感じられる瞬間だった。
「外傷が無かったのは幸いだったけど、
何でそんなに走ったんだい?」
少年が問う。
郁美は、分かりますか?と少し不思議な顔をした。
「心臓を病んでる人がそんなに無理しちゃいけないな。
それとも、誰かに追われていたのかな?」
郁美は横に首を振った。
「鞄を渡されて……、それで放り出されて……、気付いたら一人だったんです。
そう思ったら、なんだか怖くなっちゃって。
がむしゃらに走り出しちゃったんです。
おかしいですよね?
こんな体じゃあそんなに遠くまで行けるわけ無いのに……」
幼い様相に似つかわしくない、
ひどく自虐的な笑みだと少年は思った。
「そんなことは無いさ」
えっ、
と驚いた表情で郁美は少年を見た。
「誰にだってできないことはある。
確かに傷つけば、前へ進むことが怖くなる。
でも、傷ついた翼だって、傷がいえればまた飛べる。
今できないからといって投げ出すものじゃない。
それは君が一生付き合っていくものなんだから」
終始一貫した笑顔を少年は保ち続ける。
だがその言葉の重みは、
郁美にとって彼の表情など忘れさせてしまうほどのものだった。
「そう……ですよね。ダメですよね、そんなこと言ってちゃ」
郁美は吹っ切ったような表情で彼に言った。
少年はいつもの笑顔でそれに答えた。
だが、そんな一瞬の感傷で癒されるような傷でもなければ、
気持ちだけで治るほど郁美の病が軽くないことも
少年には分かっていた。
……、
…………、
……………………。
無言の時間が続く。
だがそれにも終わりが来る。
「……見えてきたよ」
「……わぁ」
森の終わりは海岸線へと続いていた。
今二人の前には、穏やかに波打つ海が広がっている。
「あるね、学校」
気のせいか、彼の口調はいかにもほっとしたような感じだった。
彼は海岸からややずれた方向に目を向けていた。
そちらの方角には森が広がっておらず、
整備された道と学校が隣接しているのが見て取れた。
「あ、私もう大丈夫です。ここからなら歩けると思います」
郁美はそう主張した。しかし、
「無理はすること無いよ。それにせっかく自分の足で歩かずにすむんだ。
楽はできるときにしておいたほうがいい」
結局少年は、その申し出を却下した。
「特別サービスさ」
そんなことを言って、彼はなんとその状態から走り出した。
森の出口から学校の入り口まで、あっという間だった。
郁美は、風を切る気持ちよさを久しぶりに感じた。