狂惑
「初音……」
千鶴は狼狽しながらさ迷っていた。
あの子がこの状況で前世の記憶に囚われていただなんて……。
それは恐ろしい推測へと連なった。
初音が、人を、殺す?
ぐっ。
下唇をかむ。
私が自ら手を血に染める……それはいい。
だがあの子。
初音にだけは……そんなことをさせたくなかった。
『天使の微笑み』
昔耕一さんが、初音の笑顔を評してそう言ったことがある。
本当にそうだ。
あの子は、うちの姉妹の中でももっとも純真な子で、
そしてどこまでもやさしくて……。
考えもしなかった。
私が人を殺すこと。
それはもう決めたことだからいい。
だが、もし自分の妹たちがそうしていたなら……。
私にはそれを受け止めることが出来る。
でも、むしろ自分自身が殺人の事実に耐えられないのではなかろうか。
血に染まった爪を眺めて、そんなことを思った。
殺す?
そんなことをさせるくらいなら……、
その前に、私がすべてをなぎ払ってしまえばいいんだ。
千鶴は冷ややかに笑みを浮かべた。
鬼が……疼く。
たとえその力を弱められていても、その本能はとどまる事もなくあふれている。
高槻……、あなたは一つだけ失敗を犯した。
鬼の本能は人間を凌駕する。
わたしに血を味あわせた以上、
あなたもまたいずれ同じ運命をなぞることになるのよ……。
鬼の力のほとんどを無効化され、
唯一の武器であった爪の片方を取り落としている。
だが不思議と不安な気がしない。
一度殺すと誓ったのなら、
その時既に自分は凶器を持ったようなものだ。
凶器……?
その言葉からもう一つの意味が思い出された。
――狂気。
「……そうね。既に私は狂っているのかも知れないわね」
一人でも多く殺そう。
そうすれば……、誰も苦しまずにすむ。誰も悲しますにすむ。
死者は何も語らない。
死者は何も思わない。
死者は何も苦しまない。
何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、
何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も。
月は人を惑わすと言う。
そういえば私が初めてこの島で人を殺めたとき、
私が殺すことを心に決めたとき、
空には美しい月が輝いていた――。