「おはよう、冬弥くん」
「ん……」
冬弥はもたれかかっていた木から身体を起こすと、手の甲で目をこすった。
俺はどうしてここにいるんだろう。どうして外で寝ていたんだろう。どうして由綺が俺の顔を覗きこんでるんだろう……。
(……っ)
順番にゆっくりと戻ってくる記憶が、由綺があの女性を撃ち殺した時の忌まわしい光景を運んできた。
思わず、由綺の顔をしげしげと見る。どうしたの? というように少し首を傾げて、いつも通り微笑っていた。
(夢……だったのかな)
希望的観測から、どうしても思いはそちらに向かう。冬弥はスッと目を伏せた。
――夢ではない。落とした視線の先、由綺の手の中には、間違いない、あの時の短針銃が握られていた。
「行こっ」
由綺はしゃがみ込んだ姿勢から勢いをつけて立ち上がった。
「緒方さんとの約束、今日のお昼くらいなんだよね? 早く行かないと、遅刻しちゃうよ」
「そうだね……」
「ほら、緒方さんすごくカンとか良さそうだし、他のみんなもササーッとすぐに見つけちゃってそうだよね。
理奈ちゃんも、弥生さんも、マナちゃんも、はるかも、美咲さんも、きっともう向こうで――」
ジジッ、と嫌な音がした。定時放送だ。
『おはよう諸君、元気に殺し合ってるかな――』
そして、高槻の声が死者の名前を告げる。
初めに読み上げられた名が、一気に冬弥の眠気を吹き飛ばした。
「は……るか……?」
「うそ……うそ……だよ、ね……」
由綺の顔色がみるみる青ざめていく。――そしてきっと、俺も同じ。
はるか。俺の、由綺の友達。軽口ばかり叩き合っていたけど、やっぱりあいつは親友で。
かけがえのない、親友だった。
「…………」
「行こう、冬弥くん」
「え?」
由綺が、冬弥の手を取って、駆け出す。
「ちょ、ちょっと待てよ、由綺?」
「早く……早く、緒方さんたちのところに行こう……!」
ギュッと掴んでいる手が、震えていた。
「いいザマね」
「もぐーっ! むがーっ!」
住井の両手両足を包帯で縛り、ついでに猿轡もかませると、マナはフフンと笑った。
「今後は初対面の女の子にそんな口きかないことね。それに、あなたみたいな人が調子に乗ってマシンガンなんか振り回してると、
あっと言う間にタチの悪い人に見つかって、狙われて、殺されて、奪われて危険度がアップするんだから。荷物は私が預かっとくわよ」
「もがーっ! むぐぐーっ!」
「そんなにきつく結んでないし、植え込みにでも放り込んどくから心配しないで。
その状態で狙われたらオシマイなんだから、ほどけるまでおとなしくしてることね」
言いながら、マナは住井のマシンガンを取り上げ、自分の鞄の中に投げ込んだ。
ナイフ、オートボウガン、そしてこのマシンガン。薬品や包帯が少々、それに中身は確認していないが聖の支給武器もあった。
荷物は結構な重量になっていたが、使わないからと言って捨てるわけにもいかない。
こんなものを転がしておいて、下手な人間に渡ったらそれこそ危険だ。
(その気になったら、普通に戦ってでも結構生き残れるかもしれないわね。……冗談よ、センセ)
ポケットの上から、聖の形見であるメスに触れる。
先端に睡眠薬が塗ってあるこのメスだけは、いつでも使えるようにポケットに入れてあった。
メスを受けて倒れたあの男はまだ寝ているのだろうか。
(……また会ったら、今度は蹴っ飛ばしてやるわよ)
今になって再び湧き上がってきた怒りに、思わず手近な住井を蹴飛ばしてやろうと思った時、遠くに人の気配を感じた。
「誰……?」
マナは植え込みに身を潜め、注意深くその方向をうかがった。
だんだん姿がはっきりと見えてくる。男と女、二人組だった。しかも……
「藤井さん! お姉ちゃん!」
見慣れた二人。逢いたかった二人。やっと、逢えた。
植え込みから飛び出し、パッと駆け出す。
「も、もがーーーーーっ!」
道の真ん中に、身動きの取れない住井だけが残された。
「マ、マナちゃん!?」
冬弥は向こうから走ってくる少女を見て驚きの声を上げた。
――まずい。まさかこの場で逢えるとは思わなかったが、今の由綺は恐らく……普通じゃない。
万が一。万が一、いきなりマナちゃんを撃ったりするようなことがあったら。最悪の想像が頭をよぎる。
だが。
「マナちゃーん!」
「お姉ちゃん!」
由綺は持っていた短針銃をあっさり冬弥に預けると、走り寄ってきたマナの身体を優しく受け止め、抱き締めた。
一連の動作はなんの澱みもなく、ごく自然なもの。あの時の狂気を感じさせるようなものは、何一つない。
(……そうか……)
――由綺の心は、無理矢理に作り出した虚構の日常の中にある。
こうして俺だとか、マナちゃんとかと一緒に過ごす時間。
由綺は今、こんなどこともわからない島じゃなく、いつもの通り、蛍ヶ崎の街にいるのだろう。
それはひどく刹那的なアンリアルだった。
「ほんと、良かった……っ! お姉ちゃんがもし死んでたりしたらどうしようかと思ったわよ」
「マナちゃんも無事でよかっ……きゃ、足ケガしてるっ! だ、大丈夫!?」
「うん、ちょっと、ね。それよりお姉ちゃん、藤井さんをちゃんと守ってあげたみたいじゃない? 良かったわね、藤井さん」
ドクン。
マナの軽口に、冬弥の心臓が大きく脈打つ。
が、あくまで由綺はニコニコと微笑んでいた。
「てへへ。私、冬弥くん守ったよねー」
「あ、ああ、うん。……由綺には感謝してるよ」
冬弥はどう反応していいかわからず、曖昧に返事をした。
外から見れば、この三人の輪は仲の良い三人が世間話でもしているように見えたのだろう。
だから、それは起こった。
「おい、その人たちってお前の知り合いか?」
道端に放置されることに憤りを感じた住井は、全身全霊をもって、必死の努力の末に戒めを解いてしまっていた。
「にしてもひでーな、お前。あんな状態で置いてくなよ、焦ったぜ……ところであんたら、美咲さんって言う――」
由綺は無言で冬弥の手から短針銃を取ると、住井に向け、撃った。
ジャッ!
「ぐぎゃっ!?」
動作の素早さが逆に手のブレを呼び、射撃の精度を損ねたことが住井にとっては幸いした。
撃ち出された針は本来の狙いを逸れ、住井の左肩の肉を吹き飛ばした。
「お、お姉ちゃん!?」
「ぐ、くっ!?」
何が起こったかもよく理解できなかったが、住井の足は即座に由綺に背を向けて駆け出していた。
肩が灼けるように痛い。流れる血の感触。熱い。
だが、逃げなければ、確実に死ぬ。そして、まだ死ぬわけにはいかないのだ。
「美咲さん……みさきさん……ッ!」
浮かぶのは、愛しい女性の顔。
護る、そう約束した人の顔。
――美咲さんは、生きている。俺が、護る。
生きて、護る。
「……あ」
カチッ。カチッ。
ニードルガンの装填数の少なさも住井には運が良いとしかいいようがなかった。
由綺はヨロヨロと逃げていく住井に向けて数回トリガーを引いたが、針が射出されることはなかった。
住井の後ろ姿が遠くに消えると、由綺は照れくさそうに肩をすくめた。
「てへへっ、ちょっと服に血がついちゃったね……そこの水道で洗ってくるね」
由綺はペロッと舌を出すと、側のマンションの敷地内の手洗い場に向けて走っていった。
「……どういう、ことよ」
「…………」
マナの小さな肩が震えている。
そんなことは冬弥自身が聞きたかった。どういうことなのか。どうしてこうなってしまったのか。
何を話したらいいかわからなかった。しばらく、向こうで由綺が水道を使っている音だけが響いていた。
「……俺が」
悩んだ末、この島に来てから今までのことを順に話していくことにした。
英二と待ち合わせをしたこと。
見知らぬ少年に襲われたところを由綺に助けてもらったこと。
由綺が女性を撃ち殺したこと。
そして、英二との約束の場所に向かう途中、ここでマナと出会ったこと。
話し終わったところで、また沈黙が訪れる。ややあって、マナがゆっくりと口を開いた。
「幻滅ね」
マナの目から涙が一筋、零れ落ちていた。
「どうして……どうしてお姉ちゃんを護ってあげられなかったの……!? そんな……そんな……」
「俺が……弱かったんだよ」
「……ッ!」
言った瞬間、脛に痛みが走る。マナが蹴ったのだ。
だがその痛みは、いつも家庭教師としてマナの側にいた時のそれに比べれば本当に弱々しいものだった。
マナが冬弥の目を、濡れた瞳でキッと睨みつける。
「行くわ。……お姉ちゃんによろしく」
「マ、マナちゃん!?」
振り返ることはなかった。
冬弥に背を向け、早足でその場から離れていく。
徐々に小さくなり、やがて消えていったマナの背中を冬弥はただ見送ることしかできなかった。
――そう。由綺がおかしくなったんじゃない。悪いのは俺なんだ。
弱い、ちっぽけな俺を護るために、由綺は壊れた。俺が、壊した。
恋人が、俺のために人を殺す。俺が、恋人に人を殺させている。
俺が死ぬか、さもなくば俺自身が由綺を殺す。由綺がこれ以上罪を重ねる必要なんて、ない。
でも、それは俺にはできない。俺は脆弱で、姑息で、臆病者だから。
……なら。
「あれ? 冬弥くん、マナちゃんは?」
「……行っちゃったよ」
冬弥は、鞄の中から特殊警棒を取り出し、太陽にかざしてみた。
反射する光。そこに、粉雪の中で微笑む恋人の姿を見た気がした。
――それなら敢えて罪を犯そう。