痛むハート
「名雪さん、待って下さいっ!」
前を走る名雪に向かって、琴音は必死に呼び掛けた。
だが、名雪は止まらない。差は広がるばかりだ。
『わたし、陸上部で部長さんやってるんだよ〜』
そう言ってたのを思い出す。
追い付かないわけだ。陸上部部長の名は伊達じゃなかった。
もう息が上がっている。これ以上は走れないと悟った。
「名雪さんっ!!」
最後に、もう一度、叫んだ。
名雪の足が止まる。
「……わたし、ダメなんだよ。
……怖いんだよ。祐一がいないと、ダメなんだよ!」
小さな声だった。
いや、そう聞こえただけだった。
琴音と名雪の距離はかなり離れている。
琴音の位置から名雪の声が聞こえるということは、相当大きな声を出しているはずだ。
「祐一もお母さんもいないと、わたしこころから笑えないよ!!」
それで、知った。
自分が喫茶店に辿り着いてから、こんな状況を気にしてないかのように笑い続けてきた名雪。
この人は強い人だ、琴音はそう思った。
それは違っていた。表面では笑えていても、こころでは助けを求めていた。
安らぎを求めていた――ここにはいない、祐一に。
――もう、限界だった。祐一に、傍にいて欲しかった。
「名雪、こっちに来なさい」
琴音はビクッと体を震わせた。
――この人はいつの間に、自分の隣にいたのか――
「あなたの気持ちはわかるけど、それでも、あなたに危ない目に遇ってほしくないの。
あなたが死んだりしたら、お母さん、どうすればいいの?」
秋子の悲痛な声が響く。
それが、最後だった。
「お母さんも勝手だよ!
お母さんも勝手だから、私ももう勝手にするの!
そんなお母さんなんて、大嫌いだよ!」
泣き声が、叫びが、秋子の心に深く突き刺さる。
それだけ言い捨て、名雪は走っていった。
もう――誰も、追うことをしない。
「秋子さん……」
琴音が声をかける。
「ごめんなさい。ひとりにしてもらえますか?」
琴音にもわかるほど、悲しみを帯びた声だった。
琴音は何も言わず――何も言えず、その場を後にした。