復讐の序曲。
………どれくらい時間がたったんだろう?
緒方理奈は、意識を取り戻してぼんやりと辺りを見回した。
(誰も居ない…)
硝煙の匂いと血の匂いが微かに、鼻を突いた。
「兄さん…っ兄さん…!」
物言わぬ亡骸と化した兄。インテリを気取って付けていた小さな眼鏡は所々ひび割れ、
泥と血が付いていた。
「嘘、嘘よ!嘘嘘嘘嘘!!!」
こんなのってない。こんなの、きっと嘘よ。きっとこれは夢で、私はまだ目が
覚めないんだわ。いつも通りに、目が覚めたら、寝起きの悪い兄さんを起こし
て、歌の収録にいって、そう。そうよ、それで由綺もいるの。冬弥くんも。
休憩に喫茶店でいつものダージリンを飲んで、収録が終わったらレッスンを
して、帰ったらまだ兄さんは帰ってなくて、電話で「何時になるのよ?」って
いつも通りに訊いて。帰ってくるまで待つの。一緒にご飯食べて……。
そうだわ。言ってやらなきゃ。兄さんの部屋いつも換気しないから、葉巻臭い
のよ。いい匂いだけど、ちょっと、好きだけど。
そこまで、思考して、理奈は兄の遺体に取りすがってまた泣いた。
血の匂いに交じって、微かに愛飲していた葉巻の香りがしたのが余計に悲しかった。
「嘘だといってよ!兄さん!!」
…わかってる。これは現実だ。兄さんは死んだ。殺された。誰だかわからない
ような、あんな、あんな女に!
「私を、殺さなかったことを…後悔させてやるわ…」
ギリ、と自らの手を握る。
「必ず、必ず殺してやる!」
そう、叫ぶように呟いて、目を閉じる。
目を開き、涙を拭って、最愛の兄の頬をそっと撫で、泥と血を落とした。
その躯に、体温はない。
だが、もう理奈は泣かなかった。悲しみよりも、憎しみの方が、ずっと色が濃い。
(殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる!絶対に、兄さんをこんな目に遭
わせた、あの女を!)
英二の顔を綺麗にしてやると、理奈はその眼鏡をそっとポケットに忍ばせた。
「愛してるわ…兄さん。だから、私が敵を絶対に…とるわ」
立ち上がり、囁くように言って理奈は走り出した。
茜を、殺すためだけに。
【緒方理奈 移動】