--落下性--


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――初音は、長い、ひどく嫌な夢から、ようやく覚めた。
握り拳を作ってみて、体力が多少なり戻った事を確認した。
幾度か瞬きをして、ぼやけた視界の中時計を見る。針は既に十二時半を回っていた。
三時間ばかりの睡眠で、ここまで体調が戻ったのも僥倖と言えよう。
自分は人より幾分「重い」方らしく、毎月身体に至る痛みは、姉達の比ではないようだ。
それが、こんな緊迫した状況で、ここまで身体が楽になったのは、本当に幸運だった。
それにしたって、三時間も彰を待たせてしまったわけだ。
する事もなかっただろう。自分が無事だと云う事は、敵の来訪はなかったと云う事だろうか。
「彰お兄ちゃんー?」
返事がない。何処かに行ってしまったのだろうか。
立ち上がると少し眩暈がしたが、なんとか歩けるくらいまでは力が戻った。
あまりこの場所を動かない方が良いかも知れない、とも思ったが、
初音には、その理性的な思考よりも、自分に走った直感を信じる事にした――
今置いて行かれたら、自分は生きてこの島から帰れないのでは、という。

足を引きずりながら家の外に出ると、彰の姿を捜す。見渡しても、この外れにはいないようだ。
商店街に出て、曇天の空を眺めるように、初音は天を仰いだ。
太陽は見えない。気付けばこんな曇り空。
まるで人影がない。他の人はおろか、彰の姿すら見えない。
動悸が乱れている。それは単に体調が悪いから、という理由だけではない。
焦りだった。一人は嫌だ。一人は嫌だ。
武器は持っている。多分他の人が持っているどの武器よりも強力な兵器を。
それなのに、不安は、焦燥は、恐怖は、まるで消えない。
ごくりと生唾を飲み込んだ。がたがたと、身体が震える。
そう。自分が武器を持ったところで、何の意味があるのだろう。
どうせ、自分に人は殺せないのだ。
誰かがナイフを持って襲いかかってきたとして、自分にこの武器が使えるだろうか。
相手が傷つくと判って、わたしは、人にこれを向けられるのだろうか。

ずきり、と頭が割れたような痛みが走る。

そう、だ。
わたしは、帰るんだ。
じろうえもん。
じろうえもん。
名前。それは、誰かの名前。

脳髄に走るイメエジ。
それは、大切なもの。

殺せる。帰るためなら、あなたは殺せる――。

がさり、という、何かを踏んだような音がひどく頭に響いたのは、そんな頭痛の最中だったからなのかも知れない
遠くに、彰がこちらに歩いてくる姿が、見えた。
凛。
――そんな、鈴の音が響いたような、そんな気がした――。

「彰お兄ちゃん」
その時初音が大きな声を出せなかったのは、近付いてくる彰の様子が、尋常でなかったからに違いない。
今まで見てきた、七瀬彰、という人格のすべてを否定しても構わぬような、そんな貌。
その眼は、優しいと言うより、ずっと、ずっと、哀しい眼。
こんな眼が出来る人だったのか、と、初音は果てしない怯えを覚えた。

「初音、ちゃん」
という、そんな、強い、強い声を、初音は聞いた。
「行こう、早く、君のお姉ちゃんを見つけに行こう」

自分の手を牽いて、彰は森の中を突き進んだ。
そこには、先までの彼の優しさ、思いやり、そんなものはなかった。
今、自分の前を歩く、七瀬彰、という、その青年は。
今まで自分が見た事がないような闇を、その手に秘めているような、そんな気さえした。

何があったのか、初音には判らない。けれど、想像は出来た。
自分が眠っている間にあった放送で――。

そして、意外にあっさりと、自分は再会できたのである。


「あ、あんた……」
浩平は思わず、木陰から姿を現した。だが、相手はまるでこちらの話を聞く様子がない。
「覗き魔ー! 変態ー!」
「む、変態めっ」
てめえの方が変態じゃねえか、と言ったら、本気で殺される気がしますよ。女装マッチョ。バカだ。笑える。
だが、ぽきりぽきり、と拳の鳴る音がする。格好はアレだが、鍛えられた肉体は紛い物ではない。
あの太い腕に殴り殺される恐れもある。銃でも勝てそうにない相手とはこんな奴か。
七瀬、お前も強い強いと思っていたが、上には上がいるぞ!
って、今は七瀬のツッコミが入らなーい、どうしよう! ツッコミのない漫才なんてただのバカじゃないか!
「ま、待てっ!話を聞けっ!」
浩平は必死に弁明するが、顔を真っ赤にして怒り狂う少女とマッチョはまるで話を聞かない。
「の、覗いたのは悪かった! マジで謝る、とにかく話を聞け! あ、あんた、天沢郁未さん、だろ?」
そう言うと、水に浸かって顔だけを出しているその少女は、二度瞬きをして、何で知ってるの? と声を上げた。

服を着て現れた……って、スカート履いてないじゃないか。また艶な格好である。
その視線に気付いたのか、横の男がスカートを脱いで郁未に渡した。
うわあ、ビキニパンツ。間違ってるよあんた、というツッコミもいれたくなる。
――郁未は不可思議そうな顔をして、
「で、あなた、どうしてわたしの名前を知ってるの?」
と訊ねてきた。浩平はこほん、と小さく咳をすると、
「伝言があるんだ。確か、鹿沼葉子っていう人からだ」
「……葉子さん、が? 葉子さんに会ったの? 何処で? いつ?」
少女は呆然とした顔で浩平の言うのを聞き、そして直後、すごい勢いで訊ねてくる。
「ああ、取り敢えず伝言言うから聞いてくれ。――鹿沼葉子が、高槻を殺しにいきます、だそうだ」
少女は唖然として、浩平の顔を眺めた。
「……葉子さん、が?」
葉子さん、と、郁未は二度呟いた。
彼女の喉仏が動くのが見えた。
「葉子さんっ」

立ち上がり、何処かあらぬ方向へと駆けていこうとする郁美の腕を、ビキニマッチョ……柏木耕一が掴んだ。
「郁未ちゃん、待て、俺にも事情を説明してくれ」
まるで俺が蚊帳の外じゃないか、と、不満げな顔で。
「俺にも話を聞かせてくれ。今まで一緒にいた縁だろ、郁未ちゃん」
郁未は、その力に抵抗できず、再び草の上に膝を付いた。

結構前に会ったんだ、と、目の前の少年――折原浩平は言った。多分高校生くらいのその少年は、
しかし歳の割に落ち着いた表情をする男で、喋り方にも自分が彼ぐらいの歳の時には信じられないような、
一歩引いた視点での冷静な雰囲気が滲み出ている。
冷静というか、単に物事に無頓着なだけの馬鹿、つまり自分と一緒な系統の人間、なのかも知れないが、
それは未だ判断のしようがない。
「あ、あの……葉子さん、高槻を殺しに行く、それ以外に何か言ってた?」
おずおずと訊ねる郁未に、浩平は軽く頷いて話を続けた。
「このゲームを仕組んだ黒幕について言ってたよ。確か――そう、FARGOが仕組んだものじゃないとかなんとか。
 それに、ミサイル発射に関する事が嘘じゃないか、とか、結界を破ればこのゲームがお終いになるだろう、とか」
郁未が唾を飲み込んだ。
「そう、……そうよね、FARGOが主犯の訳がない。それならあの少年だって……」
訳の判らぬ事を呟いている。耕一は溜息を一つ吐いて、浩平に判らぬ事を尋ねる事にした。
「ところで浩平君よ、その葉子さんとやらはどうやって重火器と戦う訳なんだね?
 良く判らないけど、結界が俺たちの力を抑制しているって事は判った。その葉子さん?
 って人も例外じゃあるまい。マシンガン一丁くらい持ってたとしても、
 凶悪な武装をしているはずの警備を乗り切る事が出来るだろうか?」
その言葉を聞くと、浩平は訳の判らない、といった顔で呟いた。
「槍一本で行っちゃったよ。あんなんで乗り切れるはずがないんだけどな……」
郁未は、……葉子さん、と、呆れとも感嘆ともつかぬ溜息を吐くばかりだったが、
耕一は、浩平のその言葉に、確かな違和感をそこに覚えた。

「あのさ……」
と、耕一が言いかけた瞬間、郁未が立ち上がり、その声を遮った。
「わたしも行く! 葉子さん一人に無理はさせられない!」
そう云うと、耕一の止める声も聞かず、彼女は森の中に入って行ってしまった。
数分後、郁未が長い木の枝を持って現れたのが二人の目に入った。
「そ、それは無茶じゃないか?」
浩平が呆れた顔で言った。まさか、その枝で戦うつもりじゃないだろ? とでも言わんばかりの表情で。
「槍も木の枝も一緒だと思うけど?」と、郁未は不敵な笑みを見せて言った。
「うん……運動能力はそれほど落ちてないから、いけるかも知れない」
「それじゃあわたし、行きます。何処に本拠地があるかも判らないけど、なんとかやってみます」
このゲームをぶちこわしてやるから、と笑って。
郁未ちゃん、ともう一度声を掛けるが、郁未は勘違いしたようで、
「耕一さんも力が無いわけだから、無理はしなくて良いです。今は、わたしの方が、多分ずっと強いから」
と言うだけだった。
「違うんだ! 話を聞いてくれ」
走り去ろうとする郁未を、耕一は必死な声で呼び止めた。

浩平も、実は同種の違和感を感じていたのかも知れない。
耕一が話し出すのを聞いて、その違和感の正体をようやく理解した。
「……その……葉子さんが出発してから十時間くらい、立っているんだろう? ……不思議じゃないか?
 例えば、その葉子さんが高槻を殺したのなら、どうしてゲームはまだ終わっていないんだろう?
 ……つまり、葉子さんは襲撃に失敗した事になる。……ならば、何で放送されない?
 鹿沼葉子、死亡っていう放送が。さっき3回目の放送が流れて、その時にも何もなかった」
――氷上シュンが死んだのを聞いて、ショックを覚えた自分を思い出した。
もし郁未にとって葉子さんが重要な人なら、それを聞き逃す事など無いはずだ。
郁未が目を見開いて耕一を見たのは、それが、――何かの確信に繋がったからだろうか。
郁美はへたり込んで、ごくりと唾を飲み込んだ。
「まさか」
「……そういう事になるのかも、知れないな」
浩平も同時に理解した。
それは、――ジョーカーの、存在。

この殺人ゲームを終わらせるために、やる気になる人間とは、実は少ない。
だから、主催者側の情報を握らせ、殺人マシーンになる事を了承させる――
そんな存在が、あるのは、知っていた。だが、葉子が、という思いがあった。
葉子も高槻も死んでいない、というのが、その事実を如実に表しているではないか。
葉子はジョーカーなのだ。人数を半数近くに減らしたのは、彼女なのかも知れない――
「嘘よ! 葉子さんがそんな、そんな」
叫び声をあげると、郁未は立ち上がり再び駆け出そうとしたが、また耕一の腕に阻まれる。
「何処へ行くんだ、郁未ちゃん」
「葉子さんを捜す! 捜して問い質すの」
その細い腕の何処にそんな力があったというのだろう、
郁未は耕一の腕をはじき飛ばすと、森の中に駆けていってしまった。
今度は、二度と現れなかった。

「どう、しようか」
という、浩平の呆然とした声を聞いて、耕一は顔を歪め、ただ考えるしかなかった。
失策だった。彼女に強い身体能力があるとはいえ、木の枝で戦えるはずがない。
追おうにも、足が異常に速く、現在の自分では追いつきようもなかった。
「郁未ちゃんを、追おうと思う。もしも彼女の親しい友人の、葉子さんが、本当にジョーカーならば、
 何となく、だけどこう思う。――彼女が、郁未ちゃんがこのゲームの、本当の意味での切り札だ」
浩平が頷くのを見て、
「君はどうする」と訊ねてみた。
「思うに、一人じゃないんだろう?」
逡巡した挙げ句、浩平は少し悩んだ顔をしながら、
「……オレは、取り敢えず連れの所に戻ります。近場ですから、少し待っていてくれますか」
「ああ」
そう云うと、浩平は自分に背中を向けて走り出そうとした――
そこに。

……幼い少女と、自分より少し年下と思われる青年が、立っていた。
その少女は、自分が誰よりも愛しいと思っていた、守らなければならないと思っていた少女。
「初音ちゃん!」
耕一は歓声を上げた。思わず駆け寄り、その弱々しく細い肩を抱きしめた。
「お、お兄ちゃん、痛いよ……」
という初音の声を聞き、ようやく力を緩めたほどである。
本当に良かった。
自分の手の届く範囲に、守るべきものがあるというのは、本当に心が落ち着く。
後は、千鶴さん、梓、楓ちゃんの3人だ。彼女たちにも逢えるだろうか。
自分が泣いているのが判った。やっと出会えたのだ。
「良かった――」
そう言うと、初音も自分の胸の下でこくりと頷くのが判った。
「それじゃあ、僕は行きます。……耕一さん、その娘を、ちゃんと守ってやってください」
青年の、凛、とした声が届いた。
そうだ、この青年は誰だ――
様子から察するに、今まで初音ちゃんを守っていてくれたのだろう。
「……ありがとう、今まで初音ちゃんを守ってくれて」
いえ、と青年は首を振る。
その仕草には、何処か無機質な、機械めいた匂いを感じずにはいられない。

「あ、彰お兄ちゃん」
初音は振り返り、青年――彰というのだろう、彼に、不安そうな眼を見せて、その名を呟いた。
「初音ちゃん。……うん、また、逢えたら逢おうね」
「彰お兄ちゃんっ……!」
そう云って、彰は走り去ってしまった。

耕一と浩平は、呆然として、その後ろ姿を見送った。
まるで、何か果たさなければならぬ目的があるかのように、強い決意の眼、だった。
「彰お兄ちゃんが、わたしを守ってくれたんだ」
そう云う初音の声を聞いて、耕一は、先の青年が見せた眼に、ひどく不吉なものを感じざるを得なかった。
初音も同じようなものを感じたのだろう、不安そうに自分の胸の下で震えている。
「大丈夫、大丈夫だよ……」
無責任に励ましの言葉を並べ、耕一は初音をもう一度強く抱きしめた。

「で、郁未ちゃん追うのはどうするんです」
という浩平の声を聞き、耕一は慌てて、
「ここで待ってるから、連れの所に行ってきて……」
と返事をした。言うと、今度こそ浩平は駆けていった。
にしても、このビキニパンツはやばいなあ、と、裸で初音を抱きしめながら、耕一は強く思ったのである。

その青年は、一つの事を誓っていた。
それは、復讐と呼べばもっと素敵なものになるだろうか。
やっと判り始めた。
自分がどれだけ愚かだったのか、という事に。
行きずりの少女に構っている暇は無かったのだ。
そんなもの、守っている暇など無かったのだ。
馬鹿だったから。
何がある。
そこに、何がある。
思うべきものがあるのか。
自分の名前を思い出せ。――そう、七瀬彰だ。
このゲームの管理人である長瀬の、分家だ。
鞄の中には、大きな袋。
重くて重くて仕方がない、
けれど、これが切り札。
何処にだって酸素は充分ある筈。だから。
だから、これで、一矢報いる事が出来るはずだ。
威力の程は知らない、だから、傷も負わせられないかも知れないけれど。
けれど、愛しい人を奪ったゲームを、終わらせられるかも知れない。
向かうべきは、ただ一つ――
管理者のいるところへ。

美咲さんの為だけじゃない。
すべての死んだ人のために。

叔父達に会えるかは判らない。
だが、なんとかして会って、そして、終わらせる。
その為の――切り札だ。

【七瀬彰 移動中(切り札持ち)】【折原浩平→七瀬達のところへ】
【柏木耕一・柏木初音 浩平達を待つ】【天沢郁未 移動中】

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