一歩、前へ


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 ひとりきり、悪い夢に取り残されたようで。
 自分以外はみんな敵に思えて。
 人の心なんて解らないから、怯えることしかできなかった。
 橘さんと同行しているときでさえずっと、私はいつ殺されるんだろうと思ってた。

『君は逃げるんだ。ここは僕が食い止める』

 決して折れない強さを持ったその声を聞くまでは、ずっと。

 ……今の私には、目的がある。
 彼の言葉を伝えなくちゃ、生き延びた意味がない。
 怖くない。怖くない。怖くない。怖くない。怖くない。
 考えちゃダメだ。何も何も考えちゃダメだ。
 立ち止まったらおしまいになる。また弱い私に戻ってしまう。
 うずくまって耳を塞ぐだけの私には、もうなりたくない。
 前だけ視て、瞳を凝らして、少しの変化も見逃さないで、走らなくちゃ。
 そして誰かが行く手にいるのなら。

「あの、あの、神尾さんという人を見ませんでしたか……!?」

 せいいっぱいの声で、信じて、聞くだけ。

 突然の来訪者……あさひは、橘の伝言を受け取っただけで、死に目を看取った訳じゃない。
 それなら彼は生きているのだと、信じ込みたかった。
 あの時の爆発音は、現場から遠く離れた晴子と観鈴の元にも届いていたから。
 爆心地に居て無事なはずがない、とか。当たり前すぎる理屈はどうでもよかった。
 晴子も、あさひも、細い糸のような希望に縋って、ただ信じることしかできなかった。

 なら私たちはばかみたいにいつも通りに過ごしてやる。
 笑って、ボケて、突っ込んで、なんの変哲もない日常ごっこをあえてやってやる。
 見知らぬ島でも、殺し合いの場だとしても。
 そうしていれば必ずあの人はひょっこり顔を出してくる。この「場所」に帰ってくる。
 照れ隠しにつまらない冗談でも言いながら。
 ここへ、

「………以上だ。ペースアップしてきたじゃないか……この…調…で…」
 一帯の放送設備が、少々破壊されているのかもしれない。
 雑音混じりの、耳障りな声。
 聞きたくなかった。知らずにいられれば良かった。
 それでも、容赦なく。逃げることも許されず、事実は突きつけられる。
 彼は帰ってこない。死んだ人だから。もういないから。
 もう。
 全員が何も言葉を発せないうちに、呆気なく、その放送は終わった。
 風はやわらかいまま、空は青いまま。
 空にはまるでにせもののような太陽。
 じわじわとゆがんで溶けていくだけの虚ろな白。
 まぶしくて見ていられないから、ぎゅっと目を閉じる。
 ワンピースに、雫が落ちた。
 顔もはっきり思い出せないけれど。
 ……名前は、まだ覚えてた。

「あいつ、最後まで格好付け、やったんやな……」
 たった数分の、けれど数時間にも感じられる沈黙の後、ぽつりと呟きが漏れた。
 『すまなかった』と。伝えられた簡潔な言葉はあまりにもストレートで。
 だからこそどうしようもなく、取り返しが、つかない。
 観鈴とあいつと、三人で水族館に行く約束。一緒にごはんを食べる約束。
 長年のしがらみを越えてようやく笑えるようになったかもしれない矢先。
「アホちゃうか……ホンマもんの、筋金入りのアホやないか」
 死んだらなんにもならない。前に進めない。何もない。
(ああ、アホはうちらなんかな)
 ばかみたいにはしゃいで。
 みんな殺し合っているのに、怯えているのに、ぬくぬくと日常の真似ごとに浸かっていた。
 その罰なんだろうか。
 無茶苦茶な思考展開だと分かっていてもそれでも、
「……あんまり、自分を責めないでください」
 あさひのよく通る声に、思わず顔を上げた。
 彼女は唇を噛んではいたものの、その表情には何か決意のようなものが見えた。
「橘さんは、私を、ちゃんと守ってくれましたから。
 不安で怖くてダメになりそうだった私を、この世界に引っぱり上げてくれた。
 それから晴子さんたちに会えて、私また笑えるようになりました。
 観鈴ちゃんと晴子さんに会ってなかったら、とっくに壊れてたかもしれないです。
 あなたたち家族が居なかったら、こうやって話すこともきっと出来なかった」
 ゆっくりと優しい声で、あさひは話す。子守歌のような声。
「ありがとう、って……本当に、心から、感謝してます」
 小さな花にも似た、その笑顔。
 聞く者の感情をぐらぐらと揺らす、彼女の声の力。
「あさひちゃんは、すごいね」
 ふと気づけば。
 顔を涙でぐしゃぐしゃにしながらも。
「あさひちゃんは強い子だよ。わたしよりずっと強い子」
 観鈴が……笑っていた。
「ぶいっ、だね」

 声優って、ホンマに……人の心、動かせるんやな。
 せやったらうちらももう一度前見て、歩けるかな。
 諦めんと、頑張れるんかな。

「……なぁ、あさひちゃん。信じてる人、おるん?
 この人だけは助けたい、この人にだけは会わないと悲しい、そんな人」
「え?」
 突然振られた急な言葉に、私は間の抜けた声を出すしか出来なかった。
「うちと観鈴にはおるんよ。ちょっとの間やけど、一緒に暮らした居候が」
「すごく面白くてね、ちょっとヘンだけど優しい人だったから」
「これからな、そいつ探してみよかー、て思いついたんや。
 どうせ誰かにやられてまうんやったら、せめて悔いなく生きたいやろ?」
「…………うん、できることしたいよね」
 唐突にも聞こえるその話の意を察したのか、観鈴も懸命に続いて話す。
 ……この子まで、覚悟を決めたんだ。
「あさひちゃんも一緒に行こう。きっと一人より楽しいよ」
「観鈴の言うとおりやで。旅は道連れて言うし」
 さっきまでの沈痛さが嘘のように、二人は明るく話す。
 気を遣ってくれてるんだ。もうこれ以上悲しくならないように、努めて元気に。
「な。ここの台所で食べられそうなもん探して、そしたら三人で行こ。
 あんたもうちらの仲間や。今さら嫌やなんて水くさいこと言わせへん」
 嬉しかった。こんなにも優しいこの人たちに会えて。こんなにも温かい言葉をかけてもらえて。
「ね、もうお友達だよね」

 そういえば。
 ファンレターをよくくれた彼は、もういないけど。
 私の事を好きだと言ってくれた彼は帰らないけど。
 その思いは残るから。
 私はその人の分まで、橘さんの分まで、出来るところまで頑張って生きようと思う。
 この家族と一緒に。

「はい。……私で、良ければ」

 頷きながら浮かんだ大事な人の姿は。
 即売会で出会った、あのひとだった。

【神尾親子&桜井あさひ チーム結成】
【第4回放送終了直後】

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