形而下の戦い〜折れたヒール〜
詩子はまだ知らない。
一人の修羅が、目的を果たさんとする”彼女”が今、正に襲いかかろうとしていることに。
ザッザッザッザッ……!
「!?」
今考えれば、靴のヒールが折れていたのね……。
走りながら弥生は思った。
だがそれももはや隠す必要は無い。
大きな足音を立てて、弥生が詩子に接近する!
「な……!?」
詩子は一瞬立ちすくんだ。そこへ一気に接近する弥生。
「はああああああああああああああ!」
ヴン!
大きく振りかぶり、横凪に詩子を殴りつける!
「きゃっ!」
詩子はとっさにしゃがみ、幸運にもそれを避けた。
(はずした!?)
直撃させることが出来なかった右の拳、しかし弥生の攻撃はそれで終わらない。
「フン!」
ばすっ!
追い討ちをかけるように放たれた弥生の膝蹴り、それが詩子のことを吹き飛ばす。
「あぐっっ!」
体勢が不完全だったせいでこれも直撃はしなかった。
だがその蹴りは詩子の腹に浅く入っていた。
やや間合いが開く。
詩子は、少し痛む腹を尻目に弥生をにらんだ。
「……なんなのよ、あなた!」
弥生は返事をする代わりに、間髪いれずに接近しようとする。
(このままだと……殺される!?)
詩子は手近にあったもう一つの鞄――中身の入った――を掴んだ。
そして近づいてくる弥生に対抗してそれを振り回す。
「うわあああああああああああああ!」
絶叫して詩子は弥生に立ち向かった。
ガン!
振り回された鞄が弥生の左肩を捕らえる!
「くっ……」
どこかの傷に響いたのか、顔をしかめる弥生。
だがそれを無視して詩子に掴みかかる。
だん!
弥生が無理矢理詩子のことを押し倒した。
「放して……、放して……よ」
のしかかられた詩子は、苦しそうにそう訴える。
だが弥生は容赦なく詩子の首に手を伸ばす。
「死んで……頂戴!」
ぎゅうぅぅっ。
急激に詩子の首が締められる。
「うっ……ぐっ……」
呼吸が出来ない。
それほどまでに弥生は強く首を締める。
その表情は、まるで何かに取り付かれたようで……。
詩子の両手が宙をもがく。
弥生は首を狙うことに夢中で、そのことを失念していた。
ギャリッッ!
「ぎあああああああっ!?」
突然、弥生が詩子から飛び離れた。
……何故か、右目を抑えて。
「か……がはっ……げほっ……!」
拘束から解き離れた詩子はその場で激しく咳き込んだ。
首を締められたことで、一時的な呼吸困難に陥ったのだ。
「おのれ……」
弥生は呪いの言葉を吐いた。
右目を抑えている手の隙間から、血が一筋流れる。
詩子は混乱しつつも、自分の状態を確かめる。
――左手に血が付着していた。
(逃げ……なきゃ)
詩子は鞄を掴むと、一目散に森へと逃げ出した。
少年が賞賛した俊足、傷ついた弥生には到底追えるものではなかった。
「大……失敗の……ようね」
弥生が呟く。
後に残されたのは、弥生と空っぽの鞄だけだった。