月明かりの下、赤い女神
(問題はあの男よね…まだいるのかしら…)
マナは歩きながらあの聖と対峙した男のことを思う。
藤田浩之(077)。
マナはその名前は知らないが、顔は覚えていた。
聖に近づけば近づくほど、あの男の狂気の表情を思い浮かべ、萎縮する。
「おチビちゃん、夜が怖いの?」
「違うわよっ!!」
時折、聖の事を思い出しているのか、言葉を発さなくなった佳乃を見やる。
先程渡した聖の形見――まだ開けられたことのないバックを胸に抱いて、無表情で歩く。
「佳乃ちゃん…大丈夫?」
「……えっ?も、もちろんだよぉ〜」
ふと我に返り、いつもどおりの人懐っこい笑顔。
先刻からこれの繰り返し。
(強がってるけど…まいってるのかな…無理ないよね…)
「ガキのくせにお姉さんぶるのは似合わないわよ」
「な、なんですってっ……!!」
だが、この夜の雰囲気に、小競り合いをしようという気にはどうしてもならなかった。
「……で……だ………だよ?」
佳乃の声が響く。
(ねぇ、あの娘、なんか変じゃない?)
マナの耳元できよみの声。
「………」
佳乃は、恍惚とした表情であらぬ方向を向いては独り言を喋るようになっていた。
何を言っているのか分からない。
先程の佳乃とはうってかわって、あきらかに様子がおかしい。
「佳乃さん、どうかしたの?」
「……えっ、な、なにが?」
瞬間、佳乃の瞳に光が宿る。
「疲れてるの?」
「ぜ、全然大丈夫!!」
「そう…ならいいけど…」
きよみが訝しげに、だけど無理矢理納得させて先を急ぐ。
(だ、大丈夫かな…)
マナもまた、先行き不安だった。
「たと……だ………よ…………から」
だんだんとその間隔が短くなっていく――
きよみと、そしてマナは、だんだんと背筋が凍るような思いを感じていた。
それは得体のしれない恐怖――。
「佳乃ちゃん!!」
マナが耐え切れずに声を張り上げたとき……
ゴッ………!!
何か、鈍器で柔らかいものを叩いた音が響いた。
「えっ……?」
目の前で何が行われているのか分からない…
ゆっくりと崩れ落ちるきよみさん…闇夜に飛び散る何かの液体…
そして、無表情にこっちを凝視する佳乃ちゃん……
「な……に……?」
土の付着した石からなんか…水がしたたってるよ…
どうしてそんなものもってるの?かのちゃん……
ゆっくりとこっちへ近づいてくる…
どうしたの?きよみさんは?なんで倒れてるの?
もしかして敵の襲撃?霧島センセイを倒したあの男でもいたの?
ゆっくりと佳乃ちゃんが私の目の前で両腕を振り上げて……
「なにしてんのよっ!!」
え?
体が宙に浮かぶ感覚――
きよみ…さん?
佳乃ちゃんの姿が遠ざかる…
ゆっくりと…こっちを見てる。
きよみさん、佳乃ちゃん置いて行っちゃダメだよ…
あっ…良かった、追っかけて来てくれてる…
でも石を持って走ったら危ないよ……
「はあ、はあ……一体なんなのっ!!」
「きよみ…さん?」
何故かきよみさんに抱えられて。
「なにか…出てるよ?」
きよみさんの頭から黒い水が出てる…
「しっかりしなさいよ!!このチビ!」
え?私?
「はあ……はあ…火事場の馬鹿力もここまでかしら?」
開けた場所、森を抜けた場所……
森を抜けて月明かりにきよみさんが照らし出されて…
憎らしいけど、ちょっと綺麗だなって、思った。女神様みたい。
だけど、その女神様は、月明かりで初めてはっきり見えたその女性は――
赤かった。
「きよ…みさん?きよみさん!!」
「騒ぐなチビ!!…それよりこの状況、絶対絶命よ…」
後ろは崖。ほぼ直角で、とてもじゃないが降りられたものではない。
落ちても死なないかもしれないが、無事ではすまない。
「……佳乃…ちゃん?」
「……ふふ……」
虚ろな目をした佳乃が、ゆっくりと追い詰めてくる。
「……武器貸しなさい…チビちゃん」
「えっ?…ダメだよ!!」
だが、静止の声も振りきってきよみが武器を奪い取る。
奪い取った獲物はオートボウガン。元は聖を殺害した浩之の初期武器だ。
「来たら…撃ち殺す…この距離ではずさないわよ……」
ゆっくりと狙いを定める。目標は佳乃の体の中心より少し左上――心臓。
手が震える。狙いが正確に定まらない。
頭から流れる血が、命のやり取りをする恐怖がきよみの体をそう反応させる。
どくどくと、脈打つように流れでる血の感覚だけが妙にリアルに感じられた。
「……わた…しが……やるの…」
黄色いバンダナの巻かれた手に、血の付着した石。
「そんな…どうして……」
きよみの横で、佳乃の姿を呆然と見つめる。
「……し……んで……」
そして佳乃は躊躇無く歩み寄り…
「こ、こないでっ!」
きよみがマナを体で弾き飛ばし……引き金をひいた!!
ばしゅっ!!
鮮血が舞う……佳乃の左腕に、突き刺さるボウガンの矢。
マナを弾き飛ばした際に、狙いがそれた…その結果だった。
佳乃はそれをものともせずにきよみへと石を打ちつけた。
ゴッ……!!
再度、鈍い音がする…
「あう……」
きよみさんが、スローモーションのように…崖下へ吸い込まれて行く……
「き…きよみさんっ!!」
ただ、無我夢中だった。
崖を見ていた佳乃ちゃんを弾き飛ばす。
佳乃ちゃんはそのまま木に打ちつけられて倒れる。
センセイの妹、今は構っていられない。
手荷物をもって崖下への道を探す。
センセイの応急処置セットが入ってるから…
すぐに手当てすれば助かる!!
下り坂を見つけてはその方向へ走る。
「きよみさん…きよみさん!」
崖下で、きよみさんがこっちを見ていた……
「…お……ちびちゃん…」
「きよみさん!」
駆け寄る。
傷がひどい…両足が折れて骨が見えてる……
頭からの出血もひどい……
「いまっ、助けるから!」
助かるから!すぐに…だって私霧島センセイの弟子なんだから!!
「もう…いいから…」
「聞こえない!はやく手当てしなきゃっ!!」
ザッ…ザッ…!
「誰?……マナちゃん?」
その時女の人の声。
いつもなら大好きで…すぐにでも駆けよって甘えたいお姉さん。
その横にずいぶんと傷ついた長髪の女の人と、
そこから後ろ、少し離れた場所に、藤井さんがいた……。
弥生さんは、もう、由綺から離れないだろう…
だから、俺は由綺から離れる。
俺に、誰も近づかないように、
もう、誰も大事な人を傷つけないように。
だけど、俺達はまた出会ってしまった。
非日常の中の1ページで。
「…マナちゃん…よかった、無事だったの?」
「お…姉ちゃん…」
由綺が駆け寄ろうとした時、弥生さんが由綺を止める。
「お知り合い…ですか?」
「うん、あの子、マナちゃん、私の従姉妹なの」
「そうですか…もう一人の方は?」
「知らない」
「そうですか」
あくまで機械的に、事務的にそれだけを済ませる。
本当にこの人には人間の血が流れているのだろうか…?
出会った頃ならそう思っていたんだろう。
でも、本当は誰よりも心に熱い想いを秘めていて…
微かな心の揺らぎが、俺には伝わった。一度だけ、弥生さんの足が震える。
「お姉ちゃん…」
呆然と、マナちゃん。
駆け寄ってあげたい…だけど、俺は弱くて…
「もう一人の方…とどめさしたほうがいいよね?」
「……由綺さんがそう…おっしゃるのならば…」
「お姉ちゃん…!?」
弥生さんが思案に暮れて、やっと出した答え。
その言葉に怯えるマナちゃん。
由綺だけがいつも通りで、それを見ているだけの俺が、どうしようもなく滑稽で……
「こ、こないで…」
その女の人を抱きしめるようにマナちゃん。
その倒れている女の人はもう助からないのだろう。
この島であれだけの傷を負ってしまえば…
それでもマナちゃんはその人を守るようにして、由綺を、弥生さんを見る。
「どいて…いただけませんか?」
諭すように弥生さん。
「マナちゃん、少しだけどいていて?その後一緒にいきましょ?」
囁きかけるように由綺。
そして、それを見ているだけの俺。
「……」
ただ、呆然とそれを見ているだけの、俺とマナちゃん。
可愛い教え子、今の彼女の心を考えただけで、胸が張り裂ける…
(由綺……あの頃に戻りたいよ……)
「俺が…やるよ」
意を決して警棒を握り締める。
「冬弥君!?」
「……いえ、私ががやります。私がやらなければならないんです」
弥生さんのその静止の言葉も意味も聞かず、俺は二人に歩み寄った。
「ふじ…い…さん…」
絶望の瞳を俺に向ける。胸が痛む――。
ゆっくりと女の人の頭上に移動する。
ちょうど、由綺達から背中を向ける位置に。
「……最低ね」
朱に染まった女が、紡ぎ出した言葉。
「ああ、だから俺は、こんな方法しか取れないんだ……」
身をかがめる。なるべく不自然でないようにして。
(マナちゃん……逃げろ…その娘も俺も由綺も置いて…早く…)
「ふじい…さん?」
かすれそうな声。また胸が切なく締まる。
横の女も一度面食らったような顔をしたが、不敵な笑顔で…
(それがいいわ、ベストの選択ね…)
死の淵で苦しんでいる女性でさえ…
俺は、自分の弱さを呪った。
「できない……できないよっ!!」
マナちゃんの、絶叫、心の叫び。
「マナちゃん…マナちゃんまで冬弥君をたぶらかすの……?
冬弥君…どいて…そこをどいて」
由綺の声が遠くで響く。
だけど、足音がゆっくりと近づいてきて……
「……由綺……」
「ね?」
横の弥生さんは沈痛な面持ちでそれを見ていた。
ああ、弥生さんも気づいたろうな…由綺の、今の心に。
「さあ、どいて」
チャキッ!
ニードルガンの音。すぐ後ろで聞こえた。
由綺はまた、俺のせいで手を汚すのか――。
「なんて…情けないチビなの…あなたもあなたよ…」
血と、絶叫が飛び散る。
「早く連れてって!このノロマッ!!」
瀕死だったはずの女性が、手で体を押し上げるように動いて由綺に飛びつく。
「あっ!!」
二人、地面に体を打ちつけて転がる。血が、飛び散る。
「………!!」
その声に背中を強く押されて、気がついたらマナちゃんを抱えて走り出していた。
「き、きよみさ〜ん!!」
腕の中で叫ぶマナちゃんの声より、女――きよみの体に針の刺さる音が生々しく、大きく聞こえた。
その音も少しずつ遠くなって…
そして、マグナムの銃声。
その音の余韻が消える頃には、三人の姿は見えなくなっていた。
「どうして……どうして……弥生さん、どうして冬弥君…」
由綺のすすり泣く声を聞きながら、押し当てたマグナムを女から放す。
「由綺さん…藤井さんを探しましょう…話は…それからです」
「うん…だけど…マナちゃんは許せない…許せないよ…」
「…そう…ですか…」
弥生はかすかに涌き出た迷いをかき消し、由綺の頭を撫でる。
今の弥生にとって冬弥と由綺はすべてなのだ。
たとえ、それが間違った行動であったとしても。
奪った命はもう戻らない。
死んだ者達の為にも、弥生達は生きて帰らねばならない。
(それこそ詭弁ね…)
そう自嘲し、倒れている女の体を綺麗に横たえてやる。
もう、後戻りはできないのだから…
そして、朱に染まっていた由綺を優しく抱きしめてやった。
015 杜若きよみ(黒) 死亡
031 霧島佳乃 左腕負傷
047 篠崎弥生 オートボウガン(浩之初期武器)回収
【残り48人】