刃
「……あなたですか」
踊り場から声をかける茜。
一階には、前に会った少女。
名前を、茜は知らなかった。
「死んで貰うわ。あの時、私を殺さなかったことを後悔するのね」
「……だから、勘違いです」
「黙りなさい。言い訳なんて見苦しいわよ」
理奈は相当疲れてはいたものの、瞳だけは獲物を前にした獣のようにギラついていた。
茜は内心溜息をついた。
(……今日は、私、甘すぎるみたいです)
「行くわよ」
言うなり、理奈は消火器のホースを茜に向け、発射した。
たちまち周囲は粉末で埋め尽くされ、視界は真っ白になった。
このまま出鱈目に銃を撃つべきか。
それとも、一旦下がるか。
茜はどちらも選ばなかった。
消火器から発射されるや否や階段を数段降り、手すりを飛び越え1階に着地した。
こちらの視界が封じられるということは、相手からも見えないはず。
そう判断し、一気に裏に回りこもうとしたのだ。
着地の衝撃で足が痛むが、大したことはない。
階段の方を見ると……そこに理奈はいなかった。
消火器を発射するやすぐに、理奈は右手にナイフを持ち、左脇に消火器を抱えた状態で階段を駆け上がった。
銃で撃たれる危険性は考えなかった。
もとより分の悪い勝負だ、このくらいのギャンブルは仕方がなかった。
死んだら死んだで、運がなかったのだ。
だが、そこに茜はいなかった。
「!?」
それを確認した瞬間、反射的に消火器を後ろに放り投げた。
すぐさま振り向き、階下を見る。
ガァァン!!
不意をつかれた茜が、消火器を避けていた。
「なんで当たらないのよっ!」
悪態をつきながら、ナイフを構え、階段を駆け降りた。
銃を構えた途端、上から消火器が飛んできた。
「……っ!」
すんでのところで、飛び退き、かわす。
理奈は既に、ナイフを持って階段を駆け降りてきている。
理奈に向かい銃を構え、何度も発砲する。
そのどれもが当たらなかった。
考えてみれば、まともに向かってくる人間に向けて銃を撃ったことはあまりない。
昨日始めて銃を持った人間が、動き、自分を狙う標的を簡単にしとめられるわけはなかった。
それでも、近くにこればそれだけ当たり易くもなる。
何度目かの発砲で、ついに、理奈の左肩を捕らえた。
痛みが走る。そんなものが何だ。
兄さんの味わった苦しみに比べたら――
撃たれてもなお理奈は走り、間合いに入った途端にナイフを振るった。
ギリギリ、かわされる。
相手も流石に馬鹿ではない、壁側に避けてくれればよかったが、廊下側に移動されてしまった。
が、懐に入り連続でナイフを振るえば、自分の有利には変わりない。
反撃の隙を与えず、ただひたすら、ナイフを振り続ける。
刃を撃つチャンスは一度。
もし外せば、
(終わりね……)
(……何か狙っているんですか?)
右へ左へ、反射だけでナイフを辛うじて避けている。
こんな状態では、銃で狙えやしない。
一度無理に撃とうとしたが、その瞬間に右腕を狙われていた。
腕にわずかに切り傷ができている。
(……毒でも塗ってるわけじゃないようです。
……もしそうだったら、この傷だけで致命傷ですから、退いているはずです)
思考だけは、相変わらず冷静だった。
(……相手の狙いをかわせば、おそらく私の勝ちです。
……かわせなければ、負けです)
必死にかわしながら、相手を観察する。
汗が浮かぶ、疲れも出てきた。
それでも冷静に相手を見る。
武器はナイフ一本、左手は動作に流されている。
左手で何かを狙っているようには思えない。
だからといって、ナイフで隙を作るような攻撃もしていない。
(……流れに任せて、チャンスを待っている?
……隙ができるのを? 違う、もっと別の何か)
相手の武器はナイフだけ……ナイフ?
そういえば、何かで見たことがあった。
ナイフの中にも、確か――
次の瞬間、茜がわずかに、ほんの少し大きく後ろに下がった。
理奈の目が光った気がした。
ナイフを降り始めて数十秒。
その瞬間が始めてやってきた。
相手に悟られてはならなかった。
だから理奈はあえて自分から狙おうとせず、ただ偶然を待った。
流れに乗ったナイフが、茜の胸の正面を通り過ぎる瞬間を。
訪れるチャンスを見逃すはずはなかった。
(当たって!!)
ナイフのスイッチを、理奈は押した。
ダンッ!
茜が大きく後ろにのけぞって――
そのまま体制を立て直した。
少し遅れて、刃が床を転がる音。
寸前で、銃のグリップで飛んできた刃を弾いたのだ。
狙っても簡単にできることではない。
最後は結局、偶然だ。
運命の神様は自分に微笑んでくれた。
ダンッ。
発砲。
今度こそ、理奈を捕らえた。
腹を押さえて、理奈はゆっくりと、その場に崩れた。