真空


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「…そう」
伏目がちに、ささやかに。
渡せませんか、と呟いて。
秋子さんはわたし達の意志を聞き流す。
ああ、このひとは自分の運命を切り開く事を放棄してしまったのだ、と。
その時、理解した。

-----こころの、隙間から

「ええー、だめだよー。
 お母さんは、あゆちゃんを連れて来るんだよ?」
名雪ちゃんが事も無げに言う。
お菓子をねだる子供よりも、当然のように。
世界の主として、彼女は要求する。
あゆちゃんが、眉をひそめる。

-----拡がった綻び。

じりじりと、時計回りに全員が移動する。
火にかけたままの鉄板を乗せた実習台を挟んで対峙する。
どこからか銃声が聞こえる。
それはきっと、校舎内のどこかで発した音なのだろう。
けれど、遠くに。
ひどく、遠くに聞こえた。

-----失われた、諸々が

「秋子さん」
今、話さなければ。今、止められなければ。
誰も無事ではいられない。
そう危惧していた。
動き始めてしまったなら。留まれなかったなら。
わたしは、この人を救えない。
そう確信していた。

-----消えゆく、暁には。

「千鶴さん」
わたしの言葉を止めるように秋子さんが首を振る。
「たとえ世界を敵に回しても、名雪のために私は在る。
 前にも、言いましたね」
そうして、ここまで来てしまった。
それでも変わらず、歩みを止めず。
このひとは、ここまで来てしまった。

-----一体何が、残るのだろう。

「問答、無用です」
梓が小さく息を飲む。
あゆちゃんがくすん、と鼻を鳴らす。
わたしと秋子さんが溜息を漏らす。
そして名雪ちゃんは、笑っている。

-----それは

秋子さんがひゅん、と唸りをあげて鉈を構える。
梓が棒を両手に腰を落とす。
最後に、わたしが。
歩幅を広げて、爪を開く。
ぶつかる視線のその間に頼りなく揺れる炎が
ふと小さくなる。
今にも消えてしまいそうな、小さな炎になって。
確かに一瞬、消えていた。

-----「真空」だ。

だだん、と大きな踏み込み音を鳴らして、秋子さんとわたしは調理台の上に登る。
互いに重心を崩さぬ速い一撃を交わす。
ひゅひゅん、と遅れて風が泣き、わたしは屈んで、秋子さんは後ろに避ける。

-----空気が、割れる。

続けて梓が棒で両足を払うが、側転しながらかわした秋子さんが片腕で身を
支え、鉈でわたしの脚を薙いでくる。
軽く前足を上げてこれを外し、秋子さんの立ち直り際を狙って跳ぶ。
梓が棒を床につき台上に登る。

-----風が、遅れて吹いてくる。

鎖骨を狙って爪を縦に振るが、秋子さんが肘を軸に左手を外に回すことで軽く
はずされる。
重心を流され左半身を晒したわたしに振り上げられる鉈。
梓が大きく踏み込んで肩を並べ、がしんと棒で抑える。
流れを止めず、わたしは時計回りに回転しながら台に手をつき右脚を繰り出し
膝を狙う。
梓は抑えた鉈を中心に棒を反転させて即頭部を狙う。
秋子さんは頭を下げ回転し、同時にわたしの蹴りを外した左脚を振り回して
梓を調理台から吹き飛ばす。

-----裂けた大気の、泣き声は

その瞬間。
蹴りの命中で僅かに速度を落とした秋子さんに対し、わたしは横になった体軸を
中心に回転する。
うつ伏せから仰向けになりながら右脚で彼女の軸足を蹴り上げた。
秋子さんは大きくバランスを崩し転がって台上から転落、背中を下に落ちる。
しかし休むことなく、そのまま両腕で反動をつけ立ち上がる。同時に手にはガス
ホースを掴んでいた。あゆちゃんが何か叫んでいる。
ぐい、とそれを引き台上から飛び降り追い討つわたしにガス台をぶつける。
意外な攻撃を受け、わたしは無防備に秋子さんの右に墜落した。
「お母さん、早く早くー」
名雪ちゃんの楽しげな声と重なるように。
わたしを襲う鉈の一閃が、横薙ぎに迫っていた。

-----短く鋭い刃物の音。

「千鶴姉!」
最初に調理台から転落していた梓が起き上がりながら棒を振り、完全に重心を
泳がせていたわたしを転倒させる。
そのとき、笑顔が見えた気がした。
名雪ちゃんの笑顔が、見えた気がした。

-----それは

ズドン!
銃声にも負けぬ巨大な衝撃が壁面を震わせる。
教室ごと、いや世界が震えたようにさえ、感じられたが。
にわかに静寂が訪れる。
何も動かず。
誰も話さず。
無音の空間が拡がっていた。

-----「真空」だ。

ぱたたっ
生暖かい何かがわたしの頭に降り注いだ。
始めは、涙ののように。
やがて、滝のように。
誰も動かなかった。
いや、動けなかったというべきだ。
視界が赤い。
わたしは、かつてこの色で世界を見ていた。
血の、色だ。

のろのろと立ち上がるわたしの目前に。
ひとつの悲劇があった。

「な…ゆき…」
秋子さんが、震える手を鉈から離す。
それでも鉈は落ちなかった。

鉈は。
鉈は、壁に突き立っていた。
鉈は、名雪ちゃんの笑顔を。
鉈は、名雪ちゃんの笑顔を真一文字に叩き割り、壁に貼り付けていた。

「ああああああああああああ!!」
秋子さんが崩れ落ちる。
もはや何も見えていないのだろう。
何も聞こえていないのだろう。
わたしに背を向けて、壁に祈るように泣いていた。

わたしは爪を振り上げた。
振り上げたけれど。
けれど、振り下ろす事ができなかった。

「千鶴姉…」
梓が呼んでいる。
みんなが、わたしを待っているはずだ。
残酷だけど。
残酷だけど、振り下ろす事ができなかった。

-----それは

二人を残し実習室を去るとき。
あゆちゃんが秋子さんを見つめて、ぽつりと呟いた。
「どう、するの?」
梓が答える。
「どうにも…ならないよ…」
そうだ。
もう、どうにもならない。
秋子さんには、何も残っていないのだから。

-----それは、「真空」。


【091水瀬名雪 死亡】

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