赤く、黒く。


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 秋子は、千鶴と梓が去ったあとも、ずっとその場に崩れ落ちたままだった。
 血に塗れ、涙に暮れ、鼻筋を境に上下に分たれた娘の亡骸を前に脱力した彼女は、もは
や抜け殻同然だった。

 校舎の中は未だ、多くの喧騒に満ちている。それは断続したり、時折響いたりしていた
が、拳銃の音も何かが壁を穿つ音も、彼女の耳には届いていなかった。見据える視線の先
にあるのは、壁に突き刺さった鉈に貼り付いた、実の娘だったものの”欠片”。
 血に塗れていない眉が緩やかな八の字のカーブを描き、血に塗れた眼球が、まるで眼前
の母に微笑みかけるように細く開かれている。

 部屋の壁が何かの振動で、細く、断続的に揺れる。誰かが、何処かで戦っているのかも
知れない。
 ずず、ずず、と、振動の度に鉈は揺れ、深く突き刺さったそれは少しずつ少しずつ、斜
めにずり落ちていく。
 ぼと、と鈍い音がして、”欠片”は床に落ちた。

「ああ。ああああああああ。ああ」

 秋子はその”欠片”を拾うために立ち上がろうとするが、身体が自由に動かない。手も
足も何もかも、まるで粘土の海を掻き分けて進んでいるかのように、鈍重で、憂鬱で。
 秋子は気がつけば全身で動くかのように、床をのそのそと這って――

 しょうがないわね。名雪ったら、もう。

 ――いや、気付いていないのだろう。もう、何もかも。
 秋子は破片にようやく辿り着くと、いとおしそうに頬にすり寄せた。色の無い脳漿が流
れ落ち、少し赤みがかった灰色のモノが彼女の腕を油で濡らし、もう黒く変色した血に塗
れ、何度も何度も、すり寄せる。
 そのうち、よろよろと立ち上がると、名雪の亡骸に近づいた。おぼつかない足取りで壁
を沿うように、振動に幾度か弾かれながら、彼女は辿り着いた。

 ほら、名雪。何時もの通り笑って。微笑んでちょうだい。お母さん、名雪の笑顔があれ
ば、他に何もいらないのよ。うふふ。

 鉈で千切れた髪を掻き集める。零れた血を、脳を、懸命に掻き集める。亡骸の上に”欠
片”を据え、集めた髪をその上に垂らす。

 ほら。これで何時もどおり。とても可愛いわ。あら?

 血で塗れた顔を拭う。血に塗れた服を脱がせる。洗うように、ごしごしと自分の服で拭
う。その度に、赤黒い色はさらに浸透していく。脱がしても拭っても、その色が落ちるこ
とはない。
 秋子の来ている物が赤黒く染まりきってしまうまで、それは続けられた。

 あら、あら、あら。どうしてかしら。もう、名雪は仕方ないわね。何時まで経っても子
供なんだから。こんなに汚して。そう何時まで経っても子供なのよね。子供で居てね。お
母さんの子供で居てね。

 身繕いをするように、何度も何度も、髪をとかす。とかす度に、ぶちぶちと毛髪が頭皮
ごと削げ落ちる。その破片はぼたぼたと、床を濡らす。

 そうすれば、ずぅっと守ってあげる。何でも望みを叶えてあげる。祐一くんは名雪にあ
げるわ。大丈夫。彼もきっと名雪のことが大好きなはずよ。大丈夫。邪魔する子は殺せば
いいんだもの。何があっても、名雪に嫌な思いはさせないわ。だって、私は名雪が大好き
なんだもの。

 亡骸と毛髪と”欠片”と。秋子はずっと握り締めたまま、一人で喋りつづけていた。

「さあ、何をしましょうかしら。ねぇ、名雪。あなた、はどうしたいのかしら……?」

 秋子はすっかり乳白色になった”欠片”だけを握り締め、ずっと一人で――

「お母さん。わたし、あゆちゃんを殺したいよ。それでね、祐一と一緒になるの。まあ、
それは大変ね。うん。でもね、そうしないと、祐一はわたしのとこに戻ってきてくれな
いの。そうね。殺しましょう。うん! それでね、わたし、祐一と結婚するの。まあ、
それはおめでたいわ。お母さんは反対しないよね。ええ、もちろん了承、よ。えへへ。
ずっと、何時までもお母さんとわたしと祐一の三人で一緒にいるの。いいよね? ええ、
もちろんよ。お母さんはわたしの味方だよね。そうよ。お母さんは名雪の味方だもの。
どんな願いだって叶えてくれるよね? ええ、どんな願いだって叶えてあげるわ」

 ――喋り続けていた。

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