女郎蜘蛛
暗い森の中、外からは見えないほど生い茂った藪の中、休む者ひとり。
篠塚弥生(047)。
浅く眠る彼女の周りには4つほどの鈴が宙に浮かんでいた。
もちろん魔法でもなければ超常現象でもない。
それらはよほど気をつけなければ見ることができないような細い糸で吊るされていた。
正確ではないがこの森の一部分、直径約100メートルの円状に渡ってその糸での結界が
張り巡らされていた。弥生は蜘蛛のようにその真中に鎮座している。
少しでも糸に触れるとそれぞれ弥生のそばにある東西南北に位置する鈴が鳴るという仕組みである。
いわゆる簡易警報装置とでもいうべきか。
その糸は巧妙に草陰、木陰に隠されていた。ただでさえ暗い森の中、しかも真夜中である。
訓練された者であってもその仕掛けをかわすのは容易ではないといっても過言ではないだろう。
それでもそれに頼りきっていては、仕掛けに気付かれたときにただの道化へ堕ちる。
浅く眠りながらも周囲への警戒を怠らなかった。
言い換えれば、警戒していたからこそ浅くしか眠れなかった。
先の戦闘後、彼女は集落の民家からある程度使えそうな物を持ち出していた。
白紙のメモから筆記道具、カンパンなどの非常食、
ニードルガンや警棒、ナイフなどを効率的に装備できるチョッキやベルト、
包帯などの簡易救急セット、果ては懐中電灯やランタンまで様々だ。
もちろん糸や鈴などもそれらの道具の一つだった。
風の音に弥生はゆっくりと目を開くと、手の中のメモに再び目を通す。
ポケットから取り出したメモはびっしりと文字で埋められていた。
人の名前。約三分の二の人間に赤い線が入れられている。
赤い線の本数は、そのまま犠牲になった人間の数を示していた。
弥生が床に就く前……――放送で13人の犠牲者が出た。
それから既に10本の線を引いている。
「理奈さんも……いなくなったのですね」
これで弥生の知り得る人間は全滅したことになる。
先程まで入れられなかった3本の線。
本来であれば引きたくなかった線。
ゆっくりと、赤色の線が緒方理奈の名前の上に11本目の線が引かれた。
アーティストから転向し、少しずつ腐りゆく芸能界に一石を投じた天才プロデューサー緒方英二も、
そしてその妹、トップアイドルの名を欲しいがままにしていた緒方理奈も。
そんな理奈のライバルにして弥生の最愛の女性、森川由綺も。
そして、藤井冬弥も……
もういない。
「本当なら…認めたくはないですね…こんな現実は」
赤色のマーカーが、残る二人の名前の上を行ったり来たりしていた。
認めたくない、だけど確かな現実が、そのペンの下にあった。
それでも、ゆっくりと、12本目の線を由綺の上へと引いた。
少しだけ、線が震えた。
「藤井さん、あなたはどう思いますか?今の私を…」
誰にでもなく呟く。聞いて欲しかった人はもうここにいない。
聞いて欲しかった人――それは由綺にではなく、冬弥に。
弥生は少しだけおかしくなって自嘲気味に笑った。
「もう……今となってはどうでもいいことですけど」
由綺が愛していた人。由綺を愛していた人。
そして、弥生が最後まで愛することのなかった男性(ひと)。
その名前にゆっくりと13本目の赤い線が引かれる。
その名前の上に一滴の雫がこぼれ落ちて、うっすらと赤く滲んだ――。
睡眠から覚めても、結局ここに留まることにした。
線の引かれていない名前が残り38人…自分を除いて、あと37人の標的が残っている。
最もあの放送から随分と時間が経っている。何人かはもう脱落しているかもしれない。
――事実、弥生の知りえぬところで既にマルチ、智子、浩平の3人が死んでいるのだが、
もちろん弥生がそれを知るはずはない――
銃器の残弾数もまだ充分に残ってはいるが、30人相手に持つはずもない。
それ以前に、戦って生き残れる保証などどこにもないのだから。
弥生以外にもゲームに乗っている人間は確実にいる。
知らないところで人が死んでいるのが確かな証拠。
無理に自分から動く必要はない。数が少なくなってから残った者を叩けばいいだけだ。
――張り巡らされた糸の結界に触れる者がいれば戦闘になるだろうが。できればそんな事態は避けたいものだ。
そう結論付け、弥生は体力の温存に努める。
弥生の脳裏にはこれまでの事、そしてこれからの事が浮かんでいた。
(結局、高槻も哀れな駒だったわけですね)
戦場に新たなる標的として放たれることとなった高槻。
恐らく高槻は誰かに殺されるだろう。
参加者であれば誰でも――殺意を覚えるはずだ。
だが弥生にとっての高槻は、もはや出向いてまで殺すだけの価値もなかった。
所詮は駒。ただ遠くで殺されゆくであろう彼を憐れむだけだ。
弥生の真の敵は高槻でもない、参加者でもない。
この島からでは届くことのない処で笑っている奴等である。
それは長瀬達なのか、それとももっと上にいる巨大な組織相手なのかは分からない。
望めるなら罪のない人など殺したくもなかった……はずだった。
それでも弥生は最もゲームの主旨に沿った、最悪の方法で復讐を果たすことを誓った。
生き残りさえすれば、確実に現実へと帰れるその方法で。
無事に日常へと生還してからが、本当の戦いの始まりなのだから。
果たしてゲーム通りに一人生き残ったとして、敵が自分を生かして帰すのか……答えはYES。
きちんとゲームの主旨に乗っ取って生き抜いたのであれば。
かつて喫茶店で出会った水瀬秋子が、前回の生き残りであると告げたことが弥生の背中を強く押した。
――あの喫茶店の面子は、娘の名雪も含め、秋子を除いてすべて死んでいる。
彼女だけ生き残ったのか、それとも秋子がゲーム通りに途中で殺したのかは分からないが
もし後者であれば弥生にとって大きな脅威になるだろう――
このゲームは過去何度も開かれていたらしい(気分の悪くなる話だ)。
秋子の言葉が本当ならば、ゲーム通りに一人生き残った場合は無事に帰されているらしい。
(秋子さんが嘘を言っていない保証はないんですけどね)
――あの時の秋子にそんな嘘をつくメリットはない、恐らくは事実だろうとは思えるが――
たとえその言葉が嘘であっても、そして別の平和的な解決方法が見つかったとしても……
自ら望み、手を血で染めた彼女に後戻りの文字はない。
彼女が選んで進める道はもう殺るか殺られるかの二択だけしかない。
(できれば……罪のないはずの人を手にかけるのはあと1人にしたいものですね)
理想でいえばそうだ。弥生の預かり知らぬところで潰しあってくれれば越したことはない。
(それが…マナさんであれば……)
それもまた弥生の理想であった。
冬弥の決断、由綺が死んだ原因。
マナが冬弥に何を言ったかは分からない。
もしかしたら冬弥が自分で決めたことなのかもしれない。
そして、遅かれ早かれ、冬弥は同じ決断を下していたのかもしれない。
非日常の中に日常を見出して逃げ込んでしまった由綺の為に。
……だが、どちらにしても彼女との遭遇が引き金になったのだから。
弥生の中では間違いなく、哀れな高槻よりも憎い相手――彼女に罪はないだろうが、それでもだ。
(どの道、一人しか生き残れないのですから)
どの道罪のない参加者を手にかけるなら、マナを。
罪の意識よりも、もっと深い感情で弥生は唇をかみしめた。
再び煙草を浅く加え、火をつける。
(今の私の姿は他の人からどんな風に映るんでしょうね)
恐らくはもうひどい姿に違いない。
適当に羽織った登山用のチョッキに、もう見る影もない(伝線というのも憚られる)ストッキング。
チョッキの下の服は既に汗と血と泥で薄汚れている。
自分の血、数多くの他人の血を吸った服。
もちろん顔も、腕も…
そして綺麗だったはずの髪も血と泥でパリパリに固まっていた。
服だけじゃない、細かな手傷も――幸い動くのに支障はないが――かなりの数に昇る。
特に顔は…失明こそしなかったが、表情もひどいものだろう。
冬弥や由綺が、何も言わずにそんな自分を受け入れてくれたのがどんなに嬉しかったことか。
チョッキに括り付けられたバタフライナイフと特殊警棒。
腰のベルトにはニードルガン、背中にはボウガンを背負って。
そんな姿で機関銃と鉄の爪を手に、闇の中で獲物を待ち構えている……
(こんな私を、誰が不気味じゃないと言えるでしょうか)
鏡がなくて幸いだったかもしれない。弥生はまた少し痛々しげに笑いながら煙草をもみ消した。
少しずつ夜明けが近づいている。
だが暗い闇の中、弥生が構えるこの場所まで、
そして弥生の心にまで太陽の光が差すことは、もうない。
篠塚弥生【懐中電灯 ランタン 包帯、バンドエイド等、数点所持】