Memories
きっとまだ遠くには行っていない。
ただの勘。
根拠のない憶測。
そんなものを頼りになめるように森を歩く。
「はあ……はあ……」
ただ歩いているだけなのに胸の動悸が激しい。
この二日間、いや、もう三日目か。
小柄な彼女の体は既に体力の限界にさしかかっていた。
それでも休むことなく歩く。挫け、立ち止まることはけしてない。
命を賭けて自分を守ってくれたあの人の妹、佳乃に会うために。
「ここは…どの辺なの……?」
武器のたくさんつまった鞄から一枚の紙とコンパスを取りだし、目を凝らす。
「えっと……まだ山の中腹あたりかな……」
その紙に描かれた島の1箇所を指で押さえて呟く。
「佳乃ちゃん…どこにいるんだろう」
あの崖から通り抜けられる場所はあまり多くない。
――ここへと辿り着く少し前……途中で、きよみの亡骸を見つけた。
むしょうに悲しみがこみあげてきて――思いきり泣きたかったけど。
(ごめんね、きよみさん……こんなことしかできなくて…でも、今は…)
そっと顔の汚れを拭って、聖の持っていた救急箱に入っていた白いシートをかぶせてやる。
(佳乃ちゃんは…私が助けるから…そして、生きてる人みんなで帰るから…見ててね)
思い上がりなんかじゃない。
会ったから、何ができるというわけでもない。
佳乃を、みんなを助けられるような力もあるわけじゃない。
だけど、ただ、生きる意思と佳乃への思いがマナをそう行動させていた。
「ひゃっほ〜〜〜う!!」
どこからか、何かの爆音と共に男の声が響いていた。
(な、なにっ!?)
マナが木の陰へと身を潜ませる。
ギュン――………!!
生い茂る森の中に一本通った舗装されていないでこぼこの山道が目の前に広がっている。
そこを一気に通りすぎる一体の単車。
「――!!」
一瞬で通りすぎたそれには複数の人間が乗っていたかのように見えた――。
そして……
ヒュン!!
さらに一瞬の後――今度は驚くべきことだった。
この島、こんな時、こんな場所を単車で走る人間がいたことにも驚いたが、今度は女が生身で走っていた。
それも、驚くべきスピードで。
ガン!!ガン!!
走るというよりはすべるといった感じのその女は、発砲しながらマナの視界を右から左へと高速で通り過ぎる。
(なに…今の……)
一瞬だけしか見えなかったが、後ろの女はCMとかで話題の来栖川グループのメイドロボ、
HMシリーズの最新.Verと確認できた。記憶が正しければだが。
前の単車を追っていたのだろうか。
一瞬助けなきゃ…とも思ったが、あまりに早すぎたその2つの音は既に向こうの崖のほうへと
消えていってしまっていた。とてもじゃないが追いつかない。
そして、その音に導かれるかのように、もう一人の少女が山道を挟んだ向こうでさまよっていた。
(か、佳乃ちゃん!?)
マナはそのタイミングに目を疑った。
道の向こう、先程の銃撃戦の音に導かれるようにふらふらと歩く。
その目は、遠目からでも焦点が定まっていないように感じた。
「か―――っ……!!」
一瞬その名を叫ぼうとしたが、マナはその声を飲み込むと、ゆっくりと気づかれないように佳乃の背後へと近づいた。
「……」
無表情のまま佳乃は歩く。時折木の根に足を取られそうになりながら、そしてそれを気にした風もなく。
どこかで響き続ける銃撃の音を頼りにゆっくりと進んでいた。
それはまさに夢遊病者という表現がぴったりであった。
「佳乃ちゃん……」
いつの間に接近していたのか、背後から恐る恐るかけられた言葉。
佳乃はスッと流れるようにその声の主へと振り向いた。
「……佳乃ちゃん…」
木の陰からおずおずとその姿を見せる一人の少女、観月マナ。
「………」
佳乃の瞳にマナの姿が映る。
先刻まで一緒に行動していた少女、そして、殺そうとしてしまった少女。
だが、表情はまったく変わりはしなかった。彼女の登場にまったく関心がないかのように。
「マナだよ…さっきまで一緒にいた観月マナだよ…
一緒に霧島センセイのところに行こうって言った…マナだよ?」
戸惑いを隠せずにマナ。
「………」
だが、それに応える声はない。
「きっときよみさんも……佳乃ちゃんのこと許してたよ?だから…元に戻って……」
「佳乃ちゃん!!」
今度は少し強めの語調。悲痛な叫び。
それでも眉一つ動かすことのない佳乃。
「どうして……どうして?……あなたは……誰?」
マナが問い掛ける。今の佳乃は佳乃であって佳乃じゃない。
マナは何も知らないし知る機会もなかったが、そう強く心に念じる。
そう思わなければ佳乃を、そしてすべてが信じられなくなってしまいそうで。
「……」
相変わらず佳乃は何も喋りはしなかった――その代わりに1歩、マナへと足を踏み出す。
「佳乃ちゃん……返事…して……!!聞こえているならっ!!」
さらに叫ぶ。
周りにもし敵――ゲームに乗った者がいたとしたら確実に殺さる的となっただろう。
そんな風にも思わせる大きな叫びだった。幸いまわりにはには誰もいなかったが。
その呼びかけもむなしく、佳乃の口は閉じられたまま。
佳乃の濁ったような瞳の中に映るマナの姿がだんだん大きくなっていく。
その瞳に、まるで飲み込まれてしまったような感覚に、マナの体は硬直してしまっていた。
「かの…ちゃん」
生気を感じられないその足取りでゆっくりとマナへとせまる。
マナまであと5歩…4歩…ゆっくりと。
そして眼前まで大きく迫ったときに、佳乃の無表情だった顔に表情が宿った。
笑い顔。
だが人の心を和ませるあの愛くるしい元気な表情でなかった。
口の周りだけを不自然に歪ませ不気味に、ニタリと――笑ったのだ。
「ひっ!!」
本能が否応なく感じ取った恐怖にマナの足が震えた。
佳乃の瞳に映るマナの顔もまた恐怖に歪む。
マナの肩を両腕で押さえつけ、後方の大木へと強く叩きつける。
「あうっ!!」
その衝撃にマナの胸に嘔吐感がこみ上げる。
そしてその衝撃は、ボウガンが刺さっていた佳乃の左腕の傷口を再び開かせ、血を撒き散らした。
血に濡れたその顔を拭うこともなく、妖艶に笑う佳乃。
その瞳だけ、不自然に感情が宿らないまま。
「かのちゃん……」
脱力感、嘔吐感、恐怖感の交じり合う中、やっとのことでそれだけを呟く。
その声に反応するかのように佳乃は再びマナの肩を引っつかんだ。
それは佳乃の華奢な体からでは考えられない、マナの理解を超えた力だった。
「うあっ!!」
もう一度、そして二度三度、木へと背中を打ちつけられる。
闇の中――血か、胃液か、どちらかは判別つかないが、口から液体が飛び出す。
「ごほっ……ごほっ……!!」
ようやく開放されたマナが地面にへたり込み、激しく咳き込んだ。
「この子は…私の命だから……だから殺すの……」
この場で初めて佳乃が発した言葉。
マナが下から佳乃を仰ぎ見たとき、闇夜の中、冷たく光る何かが振り下ろされるところだった。
「うっ……!!」
ほとんど生きる為の防衛本能だけで体をよじらせる。
肩に激しい痛み。かすっただけだったが、恐るべき速度のそれはマナの痛覚を何倍にも膨らませた。
わずかに血のついたそれは地面に深々と根元まで突き刺さった。
それはボウガンの矢。
それをいとも簡単に引き抜くと、今度は水平にそれを凪ぐ。
「や、やめてっ!!」
叫びながらさらに身を屈める。逃げ遅れたおさげにくくられた髪の毛をかすめて通りすぎる極太の針。
ドスッ!!という鈍い音と共に、先刻マナの体を打ち付けていた大木へと深々と刺さった。
ぐいっ……!ぐいっ……!!
木に根元まで刺さった矢。今度はさすがにそれを引き抜くことはできなかった。
やがてボウガンの矢の回収をあきらめると、
「……あなたも…だからいっそ…この手で…優しいから……無理だから…だから私が…殺して…」
抑楊のない棒読みの台詞を羅列しながら、今度はマナの顔面を思いっきり蹴り飛ばしにかかる。
「きゃあっ!!」
今度はよけきれなかった。手に持っていたデイバッグを眼前へとたぐり寄せ、顔面直撃だけはなんとか避けれたが、
そのキックの威力はマナの体を完全に捕らえ、宙へと舞わせる。
地面に叩きつけられると同時に、マナの体が再び宙に浮く。
どこにそれほどの力が眠っているのだろう、それほど体重差もないはずだったが、
今のマナと佳乃の力は大人と子供程の差があった。
大の男に勝るとも劣らない力を見せつける佳乃は再びマナを投げつける。
(かはっ……!!)
三度、木へと叩きつけられ声もなく地面に崩れ落ちた。
―――この子は私の命そのものです。
この子――八雲の右手首にあった生まれたときからの醜い痣。それが災厄。不吉の印。
どうしてそう言いきれるのでしょうか。
たとえそうだとして、この子を見捨てられましょうか?
でも…村の者達は誰もがこの子が災厄の元凶、疫病神であると信じて疑わなかった。
どうしても殺すというなら…私が……私の手で……だけどできなかった。
大切な、わが子を…あの人と一緒に残した私達の宝物を…壊すことなんてできない。
私は。私だけは。
母親として、最後までこの子を守り続けます。
この島で大殺戮が行われている、生き残れるのはたった一人だけ。
そんな理不尽な話がどうして起こっているんでしょうか。
この島で、この子が生き残るなんて到底無理な話。
この子は優しすぎるから……きっと最後まで誰かを信じ、そしていつか裏切られ果ててしまうから……
だから私が殺す。私にならばそれができるから。
鬼と成り果てても、この子を守るためならば。
――だけど…
心の中でもう一人の悲しみ。
――私は、佳乃なんだよ!!八雲くんじゃないんだよ!もう…やめてよぉ!!――
(ううっ……)
遠くなりつつある意識の中、佳乃の姿を確認する。
あれだけ激しく動いたにもかかわらず佳乃は息一つ乱してはいない。
体を襲う激しい痛みに身をよじらせるマナに歩み寄り、今度はその首を両手で持ち上げた。
「うあっ……」
締め付けられ、息ができなくなる。
佳乃の頭よりも高くまで持ち上げられ、首を締めつけられる。
どれほどの力がこめられているのだろう、その力で佳乃の腕の傷がさらに開き、血が溢れ出しては流れる。
それは佳乃の腕を伝い、肩を濡らし、白い服を徐々に真っ赤に染めあげていく。
「や……め……て……」
力なく、かすかに漏れる息と共に声を絞り出したが、一向に手の力が緩むことはなく――
逆にどんどん締めつける力は強くなっていった。
(佳乃ちゃん…やめてっ!!)
出会った頃の佳乃の笑顔を忘れないよう強く心に思い描きながら、足掻く。文字通り、足をジタバタと動かして。
だが、どんなに足掻いてみても足が地面に着くことはなく。暴れるたびにマナの首が締めつけられていく。
「………!!」
振りほどこうと動くマナの手が、佳乃の腕を掴もうとしたが……腕に滴る血で滑ってうまく掴めず、表面を撫でるだけだった。
そんな中、マナの手が布に触れた。右腕につけられている黄色いバンダナ、佳乃であるという証。
朦朧とした意識の中、それを力任せに引っ張ろうとした。
「――――!!!」
瞬間、佳乃が首に回していた両手を離し、バンダナを掴んでいたマナの手を弾く。
(あうっ!!)
開放されたマナのその体はそのまま地面へと崩れ落ちた。
「―――!?」
あいかわらず瞳は淀んだまま、だけど今の佳乃が初めて見せる狼狽だった。
「げほっ……げほっ…」
マナの体が新鮮な空気を取り込む。こんなにも空気がおいしいと感じられたことは今までにない。
だが、開放されたのもわずかな間。再び佳乃はへたりこんでいるマナをさらに押し倒すと馬乗りになる。
逃げようともがいたが叶わなかった。
佳乃は再びマナの首を力任せに締めあげた。
急速に力の抜けていく体。酸素が足りない。未だ動悸の収まらない体は既にマナの意識を断ち切るほどまでに弱っていた。
(助けて……霧島センセイ……藤井さん……お姉ちゃん!!)
半ば絶望の中、もう還らない人達の姿が次々と頭の中で右から左へ、左から右へと流れていく。
(私…もう……)
かすむ景色。動かなくなっていく体……それでもマナの手は生きようと動いた。
手に何かが触れる。
マナの持っていたバック。先刻蹴り上げられたときの衝撃でそのチャックが開き、中から武器が飛び出していた。
藤田浩之が管理者から奪い取った、そしてマナが浩之から没収した拳銃――
それを指先でたぐり寄せ、握る。
(佳乃ちゃん……!)
残された力を振り絞って、佳乃へと銃口を向ける。
(佳乃ちゃん……!!)
佳乃の脇腹へとそれを押し当てる。あとはわずかに力をこめるだけ。
(佳乃ちゃん……!!!)
――景色がとっても遠い。生きてきた17年間の思い出が頭の中で弾けては消えてく。
短い、ほんの少しの間だったけど、きよみさんや私と笑いあった佳乃ちゃんの無邪気な笑顔が浮かんでは消えた。
いつのことだったんだろう…それはほんの少しだけ前の話。少し前までずっと笑ってお話してたのに……。
思い出すだけで切なくなって、涙が浮かんで目の前が滲んで。だけどもう目が見えなくなっていって――。
撃てば助かる…あとほんの少し指を曲げるだけで。だけど佳乃ちゃんはどうなるの?
センセイやきよみさんに藤井さん…みんなに助けてもらった命…大事にしたかった。だけど……
私は最後の力を振り絞って手を動かした。拳銃を遠くへ放り投げる。
――撃てない。私撃てないよ。佳乃ちゃんなんだよ?やっぱり撃てないよ――
そして佳乃ちゃんの体に手をまわして、ぎゅっとした。
助けられなくて、ごめんね、佳乃ちゃん――。
「前に――聖お姉ちゃんもね、こうやって私を抱きしめてくれたんだ……」
マナの首から手を離すと、佳乃もまた、マナの体を抱きしめてやった。
「お父さんが死んだときも、そして私が私じゃなくなっちゃったときも。ぎゅってしてくれたんだ」
マナの体を優しく包む。
「抱きしめられてると安心するんだ。子供っぽいのかな?だけど…」
佳乃の瞳は色を取り戻し、そこから澄んだ水が雨のようにマナの顔へと降り注いだ。
その暖かい雨はやむことはなく。
「あの時は気づかなかったんだ、私バカだから。ずっと、寝ぼけて診療所を歩いてたと思ってた」
でも、普段の佳乃とは考えもつかないほど、重く、真剣な声。
「きよみさんも…そしてマナちゃんも私が傷つけたんだね…」
そしておそらくあの猫耳メイドの梓も。
「心の中でずっと叫んでた…マナちゃんを傷つけていく私を、私は止められなかった。
私がやったことは…許されないかもしれないけど…本当は、死んじゃった方がいいのかもしれないけど…
私、お姉ちゃん達の分まで生きたい。だから…生きていてもいいかな?」
後悔してもしきれない。そんなやるせない感情を胸一杯に抱いて。
「私、もう一人の私はきっと私が止めるから…生きていてもいいよね?」
人はこんなにも涙を流すことができたのだろうか。涙が、佳乃の顔に飛び散っていた血を洗い流していく。
「ごめんね……ごめんね…マナちゃん――」
もう一度、マナをもう二度と離さぬように強く抱きしめた。強く、強く――。
「バカみたい……生きてていいか、なんて……と……当然じゃ…ない…」
ゆっくりと体を弛緩させて。
息も絶え絶えにやっとしぼり出せたのは、バカにしたような口調。
それでも嬉しそうに涙を浮かべて。
「それに…ぎりぎりだったけど間に合ったん…だから……
わ…たし…生きてるんだからさ。だから元気出しなさいよ…
…勝手に死なれちゃ困るわよ…そんな…ことしたら私が…そしてみんなが許さないんだから」
マナがその言葉への返事として強く佳乃を抱き返した。
「マナちゃん……ごめん…ごめんねっ……!!」
泣きながら抱きしめあう二人。確かなぬくもりが二人のまわりの空気を穏やかなものに変えていった。
先程までは一面の暗い夜空。だがいつの間にか、東の空が幻想的な薄紫色へと変わっていた。
夜明けはもう、すぐそこ。
霧島佳乃【ボウガンの矢 紛失】