歪む世界
鐘が鳴る。鳩が飛び立つ。広場を埋めた群集の祝福が――聞こえる。
そう。聞こえたのだ。水瀬秋子の耳には。
突然、秋子は歩みを止めた。そして、
「……祐一? そう。そこにいるんだ」
と、呟いて笑みを浮かべる。後ろについていた二人は何事かと顔を見合わせる。
「ねぇ、聞こえたよね?」
振り返り、御堂たちに秋子は問いかける。詠美はすぐさま御堂の背中に隠れると、ぎゅっとその服の裾を握る。
「何がだ? 何も聞こえねぇが」
「うそ」
きっ、と秋子の目に光が宿る。
「聞こえたもん。祐一がここで待ってる、って声が。祝福の鐘の音が。祝ってくれる、みんなの声が」
おいおい。と御堂は内心で舌打ちをする。やっぱついて行くという俺の判断は間違ってたのか?
「で、どこから聞こえたんだ?」
「決まってるよ」
唇の端を歪めて笑う。
「結婚式は、教会でやるんだよ」
ふふ、と笑い声を漏らす。だが、この辺りからはその教会とやらがどこにあるのかわからない。
木の陰に隠れて見えないのかもしれないが、それにしては秋子が聞こえたという鐘の音を御堂は聞くことが出来なかった。
おいおい、俺の耳がどうかしちまったのか? と背中の詠美を見ると、詠美もふるふると首を振る。
こいつにも聞こえないらしい。と、いうことは恐らく幻聴か。
突然、秋子はうろたえる。そしてぶつぶつと繰り返した。
「どうしよう、早く行かなくちゃ。みんなが待ってる。お母さんが、祐一が待ってる。待ってる。待ってる……」
と、意を決してどこかへ秋子が駆け出――そうとするが、背中のソレが重いのかなかなかスピードが出なかった。
「……」
すと、と立ち止まると……秋子は憎憎しげに吐き出した。
「……これ、邪魔……っ!」
どすん、と鈍い音がしてソレは地面に落ちた。そして身軽になった彼女は今度こそ走り出す。
――それは綺麗なフォームだった。そう、それは彼女の娘。陸上部に所属していた水瀬名雪の走る姿のように。
「……!?」
地面に落ちたソレを見た詠美はひゅっと息を呑む。そしてやおら両手で口を押さえると――林の奥へ逃げ込んだ。
ち、と舌打ちをしながら御堂は秋子が走って行く様を見やる。そしてディバッグから未開封のペットボトルを取り出すと、
「ほれ。こいつで口でもすすげ」
と、嗚咽し、しゃくり上げる詠美の方へひょいと投げた。
「……」
ふみゅーん、と力無い声がして地面でニ・三度跳ねたペットボトルを詠美が拾い上げる。
うっうっ、と泣きながらもうがいをしているようだ。
改めて御堂はその死体を冷静に観察する。致命傷は――確認するまでもない。
原型を留めていないその顔の傷だろう。あまりに酷い死に様に、御堂は思わずため息を漏らす。
「一応、弔ってやるか。強化兵が弔いたぁ、笑えねぇ冗談だな。坂神が見たら何と言うだろうな……けっ」
ひょいと抱えあげて、近くの木陰に横たわらせる。血がほとんど流れ出たためか、その身体は驚く程軽かった。
目を閉じてやろうかとも思ったが、目がどこにあるのか判別しにくかったので諦める。
その代わり、両手を胸のところで合わせてやる。――と、御堂の指が何か硬いものに触れた。
「?」
罰当たりかもな、と御堂はふと思ったがとりあえず利用できるものは何でも利用するのが勝負の鉄則だ。
御堂は名雪の胸ポケットからそれを抜き出す。と、その正体は冊子だった。役に立ちそうも無いと判断し、
戻してやろうとぱらぱらとページをめくって――御堂の顔が歪む。
「おいおい、これは……と、言うことは」
「ねぇ、したぼく?」
突然の詠美の声に、御堂はその冊子を懐にしまうと振り返る。
「あの、その……し、死体をどこか別のところに……」
と、そこまで言ってまた思い出したのか、うっ、と口を押さえるとふみゅーんとまた身を隠す。
「あー、弔っておいたから出て来い」
やれやれ、と御堂は頭を掻いた。
「全く。最初にあの死体を見たときは案外平然としていた癖によぉ」
「だ、だってだって! あの時は顔を伏せてて、しかも髪で顔が隠れてたから……うっ」
「あー、悪かった悪かった。だからもう吐くんじゃねぇぞ」
詠美は口をハンカチで押さえ、潤んだ目で御堂を睨み付けると、吐き捨てるように叫んだ。
「むかつくむかつくちょおむかつくーっ! なによ。なによなによなによぉっ!」
「へいへい、すみませんでした。……おい、こいつをどう思う?」
怒り心頭の詠美に、御堂は先程名雪のポケットから抜き取った物を突きつける。
「何、これ? ……がくせいてちょお?」
詠美はその学生手帳を片手で受け取ると、ぱらぱらとめくろうとして――表紙を開いたところで止まる。
「……え?」
そこには、のほほんとした少女の顔写真とその氏名らしきものが載っていた。
「ねぇ、この『みなせなゆき』って名前、さっきの女の人の名前じゃないの?」
「確かに、そう言ってたよな」
「でも、この写真はあの人と違うよ。……ふんいきは似ていると思うけど」
「そうだな。この写真の女は……あの死体だ」
「そ、それって……どういうこと?」
ちょっと推理マンガみたいだ、華麗な探偵詠美ちゃんさまとそのしたぼく。――なんて思いつつ詠美は御堂に先を促す。
「あの女が名前を偽ってるってこった」
「な、なんでそんなことを?」
「さぁな」
御堂は詠美の質問を軽く流すと、秋子が走り去った方へ歩み始める。詠美も慌てて後を追う。
「……或いは、そう思い込んでるのかも知れねぇな」
「思い込む……?」
御堂はそこで立ち止まると、詠美の方へ向き直り静かに言った。
「いいか、これ以上あの女に関わるとロクなことが無いと思う。それはお前も感じたよな?」
うんうん、と詠美は頷く。と、言うか既にしている。華麗なクイーン詠美ちゃんさま、胃の中のモノを全てリバース。
「このままあの後を追うか、それとも別の行動を取るか。好きな方を選べ」
「あ、アンタはどうするのよ?」
御堂は、へっと笑うと詠美の頭を軽く小突いた。むっとして御堂を睨み付ける詠美。
「お前の意見に従ってやる」
「ふみゅ?」
ぽかん、と口を開ける詠美。
「俺はお前の下僕なんだろ? 今回は言うこと聞いてやるって言ってるんだよ」
詠美は『信じられない』という疑惑の目を御堂に向ける。
「不満そうだな。わかった、じゃあここでおさらばだ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
背を向ける御堂を慌てて引き止める御堂。
「どっちだ?」
「わ、わかったわよ! えっと、えっと……今決めるから待ちなさいよね!」
しばしの時間、詠美は思考してそして御堂の方へ向き直り言った。
「決めた!」
ふふん、と胸を反らしながらの詠美の提案に、御堂は「わかった」と頷くと行動を開始する。
「行くぞ」
こくりと頷く詠美と、にゃあとぴこと鳴く獣たち。
御堂はこういうのも悪かぁねぇな、と思い……そしてぶんぶんと首を振る。
ちっ、全くどうかしちまってるぜ俺はよぉ。――だが……さっきは俺の判断でこんな目になっちまった。
じゃあ今度は別の方法を試して見るってのが筋だろう? だから、今度はこの女に決めてもらった。
これでまたヤバい目に遭ったなら……そうだな、今度はあの獣たちにでも決めてもらうか?
御堂は幾分身体が軽くなっているのを感じた。まだ傷は完全には癒えていないが、これで十分だ。
坂神とやりあうのでも無ければ。
――そう。幾分生まれた余裕が、御堂にこんな酔狂な真似をさせた理由かもしれなかった。