Kanon
「なゆ……き?」
声が静かに響いた。止まった時の中で。
誰もが動かなかった、動けなかった。異様な雰囲気に包まれて。
血塗られた赤き女性が、ゆっくりと近づいてくる。
気絶している茜はもちろん、意識のあるものもまた、体の動かし方を忘れてしまったかのように。
「……」
祐一の唇が、かすかに動いた。ただし、それはただ寒さに震えるような弱々しい童子のように。
そして、赤き女性が紡ぐ言葉。
――やっと……会えたね?――
「ずっと……好きだったんだよ…?」
無邪気な微笑み。
「………」
それを呆然と眺める晴香となつみ。
血塗られた女性の出現への萎縮、恐怖、驚愕、そういったものも含まれていたかもしれない。
だが、それ以上に――空白だった。
「七年前のあの時から……ずっと、待ってた。祐一のことを」
晴香の目の前を、気にした風もなく通り過ぎる。晴香の目線だけが左から右へと流れた。
「祐一は、あの街が…私達の街が、そして私達が嫌いになったんだって思って…すごく悲しかった。
だけど…戻って来てくれて本当に嬉しかったんだ」
ゆっくりと3人の前まで歩み寄って、止まった。
動くことができない茜と、
動けなかった祐一と、
もう動かない詩子と。
「祐一は、また、ここに帰ってきてくれたから……」
上から祐一の顔を覗き込む。あの日、駅前で再開したあの時のように。
祐一がいつか見た光景。
降りしきる雪の中の再開、七年ぶりに訪れたあの時の再開のように。
「……」
ゆっくりと震える唇が動いた。声は出なかった。
晴香の横を通り過ぎて、座り込んでいる祐一の前まで進みよって来る影。
「七年前のあの時から……ずっと、待ってた。祐一のことを」
どこか遠くに聞こえる言葉。
祐一にとって、この島での出来事はすべて夢のように感じられていた。
ひどく、悲しい夢物語。
それでも、茜の、そしてまだ暖かい詩子の手の温もりが伝えていた。
これが、現実だということを。
詩子と、そして…七年ぶりに訪れた街で出会った、大切な人達との物語は――
もう終わってしまったんだということに。
だから、今、起きていることこそが夢物語。
近づいてきた女性が、祐一の視界を遮った。
「祐一は、また、ここに帰ってきてくれたから……」
微笑んだ。あの日の名雪のように。
(まるで、あの時みたいだな……)
どことなく麻痺した頭の中で祐一は思う。再開の冬の日、雪で湿ったベンチで座ってたあの日の事を。
(結局、2時間も待たされたんだよな)
あの日の言葉が思い出される。
――雪、積もってるよ。
今は積もってなんかいない。
そして暖かい缶コーヒーが渡されることもない。
「祐一、ずっと、ずっと好きだったんだよ……」
彼女の口から出る言葉。その想いが、伝わってくる。
いつか聞いたセリフ、それは七年前の冬の日のこと。
――…これ…受け取ってもらえるかな…?
あの日、差し出された雪うさぎ。
――春になって、夏が来て…秋が訪れて、またこの街に雪が降りはじめたとき――
思い出されるそのセピア色の光景。
――また、会いに来てくれるかな?――
あの日の、繰り返し。
――わたし……ずっと言えなかったけど……祐一のこと……ずっと……――
セピア色の思い出がだんだんと現実の色に染まって。
「好きだったよ」
最後の言葉。現実の彼女の言葉と重なる。
現実の彼女は、顔に大粒の涙と血をたたえて。
「………」
祐一が、茜と詩子の手を痛いほど強く握り締める。
ようやく、祐一が声をあげる――ゆっくりと、震えないように。
日常の中にいるかのように声の調子をおとす。
「なあ、俺の名前、まだ覚えてるか?」
今、彼女が自分の名前を言っていたのにもかかわらず、そう切り出した。
「うん、私の名前は?」
「…………ああ……」
血と、涙で彩られている顔にはひどく不釣合いな満面の微笑み。
「……ゆういち」
「花子」
「違うよ〜」
ただ滑稽な会話だけが辺りに響く。
「次郎」
「私、女の子……」
気付かないうちに祐一も涙を流していた。
祐一だけが知るそのセリフの意味に。
もう、こんななんでもないような…そしてそれでも幸せだったやりとりが、もう出来ないんだということに。
「もう、やめませんか……?」
祐一の声が震えた。
「わたしの名前……」
「もう、帰っては来ないんですよ……」
悲痛な声。ギュッと閉じた目から、大粒の涙がもう一度だけこぼれる。
「名前……」
食いしばった奥歯から血の味がする。
「もう、やめましょうよっ……」
絶叫、声が不自然に裏返った。
「なまえ……」
どうしたの?というように彼女が祐一に顔を近づけた。
「もうやめよう――」
祐一の口から、彼女の名前が漏れた。
祐一と結婚したい。私の想い、お母さんの願い。
ずっと好きだったこの人に、自分の気持ちを伝えるんだ。
その事を考えるだけですごく嬉しくて、だけど、どこかですごく悲しくて。
心が壊れてしまいそうで。
だけど、祐一ならきっと私の心を守ってくれる、私を受け止めてくれる。
弱い、私を。
きっと好きだって、言ってくれる。祐一は応えてくれる。
私が、こんなに愛した貴方だから、私が信じている人だから。
だけど、愛した人の口から漏れた言葉は――
本当に愛していた人の口から漏れたその名前は――
崩れた。