男は蘇る
ザッザッザッザッ……
――草を踏む音。遠くから、しかし徐々に近付いて聞こえてくる、それ。
規則的に、身体の揺れる感覚。
膝の裏と、背中の辺りに、何かが当たっているという感覚。
祐一の、腕。
――抱き抱えられてる?
それは、まさしくその通りであった。
祐一は。
その腕に茜の身体を抱え、命を賭け、駆けた。
そしてそれは――奇跡的に、成功した。
教会を脱出し、今は森を駆ける。森に入った時点で、もはや駆ける必要は無かった。
だが。
祐一は、少しでも遠ざけたかった。
茜を、あの教会から――あの戦場から、遠ざけたかった。
彼女は。
もはや、ただの少女。
冷たくも、それでもどこか優しかった――あの、里村茜なのだから。
「祐一……」
すぐ、目の前にあった顔に向かって呟く。その、小さな声に、祐一の足が止まった。
「……茜。起きたのか?」
「起きてなきゃ話せません」
相変わらず。
冷えた視線は、祐一を見ている。
「……まぁ、そりゃそうだな」
それでも、祐一は感じた。
それが、かつて、百貨店の売り場で会った時の目とは違う事を。
そして、教会で再び出会った時と――違うことを。
ゆっくりと――茜の身体を下ろす。
立てるか。祐一はそう訊いたが、何事もなかったかのように、茜は立ち上がった。自らの足で。
そして、沈黙。
お互いに、相手の顔を見ていた。
しかし、二人の口が言葉を紡ぐ事は無い。
風が流れる――僅かな血臭を感じた、ような気がした。
随分と間を持って、茜が口を開いた。
「――詩子は」
ぽつりと。
「――詩子は、どうしたんですか?」
「………」
放たれた言葉は、冷たく。
そしてそれが思い起こさせる、結末は、重く。
出来れば口にしたくない、聞かせたくない。だが、祐一は口を開いた。
迷うこと無く。
もう、逃げない。そう決めた。
「――詩子は、死んだよ」
――そうですか、と茜。分かっていたかのように。
「笑ってた。最期まで――。あいつは、お前を憎んでなかった。これだけは本当だ」
茜はそれを聞いていた。
無反応。だが、その言葉は、確かに耳を打って――。
「最期に――。最期に。お前に……お前が大好きだったって、言って……」
「………」
祐一の言葉は、そこまでだった。
お互いに、無言。
空白。
静寂。
時が止まったかのような中、祐一も、茜も、その目から、涙を零すことは無い。
祐一は、耐えていた。
強くあらねば、と思っていたから。
今は、今だけは、泣いていていい場合ではない、と。
――そして、茜は。
「……泣きません」
空白に放たれた呟き。
じわり、と広がったそれが、確実に、時を進める。
「今は、泣きません――貴方が、耐えているなら」
「――そう、か」
強い、と。祐一は、素直に思った。
だが、当たり前だ、とも思う。
始まって間もなく、独りで生き残るが為に、全てを捨てた少女だ。
弱い筈がなかった。
鳥の声。
風の音。
足を止め、向かい合う二人を包むが如く、森は唄っていた。
―――。
祐一が、それを聞いた。
声。
絶叫。
きっとそうだ。
そしてそれで思い出す。
――自分が、逃げてきたことに。
そう。
戻らなくてはならない。
男として。
「茜――」
「はい」
「隠れててくれ。俺は、教会に、戻らなくちゃならない」
水鉄砲を、固く、握る。タンクの中の、濃硫酸が、たぷんと揺れた。
「あいつらが、助けてくれたんだ。だから、俺達は此処にいる。
俺は――このまま、逃げていたら、本当に駄目になっちまうと思う。
……だから」
息を吸い込む。
吐き出す。
吐き出された息が、震えているのを、祐一は自分で感じていた――それを無理矢理抑え付けた。
「あいつらを助ける。
――多分、それが、今俺がしなくちゃいけない事だと思うから」
固い決意。
茜は、それに何か言うわけでなく――腰に下げた、短刀を抜き、祐一に手渡した。
祐一を見る、その目は。
今度ばかりは冷たくなかった。
それを見て、祐一はまた新たに決意する。
――必ず、帰ると。
背を向け、駆けた。
振り向きはしなかった。
走る。
走る。
木を抜け、草を蹴り。
右手には水鉄砲。
そして短刀。
だが、祐一は今、己の武器以上のものを手に入れていた。
【元ヘタレ男、教会へ向け奔走中】