言霊
手が震えていた。
左手のみだ。
いつの間にか握られていた右手は、何とか震えは起きないでいる。
郁未に気付かれる事も無い。
無論、冷え性というわけではない。
緊張しているわけでもない。
いや、むしろそんな理由であった方が良かったかもしれない。
――崩壊が始まっていた。
少年の内には、不可視の力が宿っている。
不可視の力の始祖としての、強大なる力。
これに比べれば、郁未の力も模造品と言っても差し支えない。
故に、障害が生じるのだが。
結界。
これによって封じられた力は、確かに少年の内に在る。
だが、それをいつまでも封じていられるわけにはいかないのだ――。
暴走を始めつつある力は。
時に血の衝動を引き起こし。
限界を超えた力を無理矢理引き出す。
抑える事は出来た。
――己の身体を削る事で。
そう、外に溢れ出さんとする力が、己の身体を傷つけているのだ。
少年は、汗を掻いていた。
それは、実に、実に珍しい光景であった。
「――郁未」
声を掛けた。
何となしに空を見回していた郁未が、顔を向ける。
「何?」
「もし、僕が死んだらどうするつもりだい?」
あまりにも唐突な問い。
少年にも、何故そんな事を訊いたのか良く分かっていなかった。
微かに潜む、死への恐怖がそうさせたのかもしれなかったが。
郁未は、若干虚を突かれたような顔を見せた――
すぐにそれは、少し怒ったような顔になった。
「あまりそういう事は言わない方が良いわ」
「どうして」
「言霊っていうのがあるでしょ」
右手を放される。
郁未は腕を組んで少年を睨んだが、少年は密かに安堵した。
身の震えを気付かれる事が無くなったから。
「死ぬとか殺すとか、そういう事ばっかり言ってると本当にそうなるの」
それから、郁未は。
少し哀しげに目を伏せる。
「私は――あなたに、死んでほしくないから」
心持ち暗い声で、そう言った。
それを聞いて。
少年は、拳を握り、手の震えを打ち消した。
改めて思ったのだ。
僕は、まだ死ぬわけにはいかない、と。
「――そう、だね」
呟くと、いつも通りの笑顔を見せた。
それはまさしく、いつもの少年の笑顔。
郁未も、ようやっと笑顔を返した。
――そこで耳に届く、悲鳴。
郁未の顔が強張る。
少年は、冷ややかな顔を森の奥へ向けた。
「――近いね。気を付けた方がいい」
警告。
郁未は、無言で頷いて返す。
その手には、既に包丁が握られている。
少年は、その手に何も握ってはいなかった。
だが。
辺りに、微かに漂う何か。
不可視の力――。
行き場を失った強大な力を、ほんの僅かに引きずり出す。
濃艶な血の気配が漂った。
それは、これから起こる何かを思わせる。
やがて、草を踏み鳴らす音。
誰かが、近付いてきている。
誰か。
足音は、軽く、妙に安定さが欠けていた。
女。それも錯乱している。
恐らくはマーダーではなかろう。
――少年の察知は見事的中した。
少しして、草木の中から飛び出してきたのは、少女。
少女の名は、天野美汐――
【003天沢郁未、048少年 005天野美汐と遭遇】
【064長瀬祐介 接近中】