心の傷の行く先は
昼間っから風呂など頂いてみたりする。
キンキンに冷やしたビール…じゃないわ、これはジュースなのよ。
そんなささやかな贅沢が、この島では最高の娯楽なのかもしれない。
ドラム缶を湯船に使っているので、なかなかに恐ろしいのが珠に瑕だけど。
この島に来て以来…いや、瑞佳が倒れて以来、これほど安心できたことは無かったと思う。
鼻歌なんか歌いながら、あたしは薄汚れた愛用の制服をたたみ、タオルを服代わりに裸足で歩く。
小さな手ぬぐいで、可能な限り汚れを落とし、短くなった髪を洗う。
いよいよ湯船を攻略よ、と気合を入れて立ち上がり、おろした髪を上のほうに無造作に束ね…
…束ねようとした手が、空を切る。
そうだ。今では、お風呂に入るために髪を上げる必要もない。
洗ったばかりでありながら、自分の”変化”を忘れている。
しかし忘れていた”変化”を思い出せば、喪失感が身を包む。
ためいき、ひとつ。
…そんなちょっとした喪失感は、実際失ったものと比べれば微々たるものなんだけど。
足の指先で、ちょっと行儀悪く具合を確かめて、すとんと湯につかる。
暖かさが、疲れた身体に染み入り、思わず、はあっと息をつく。
そのとき、お隣さんから声がかかった。
ようやく口を開いたな、と思った。
「ねえ、七瀬」
特に何の感動もなく、黙々と作業を進め、先に湯船に到達していた晴香。
無表情に何かを考えていたのは解っていたから。
「…なあに?」
だから誘うように、意思を込めずに促してみる。
「あたし…ここを離れようと思うの」
「え…」
ざば、と音を立てて、晴香は湯船から上がる。
珍しく視線を合わせず、迷いもあらわに晴香は呟いていた。
-----ここを離れる?それは、蝉丸さんや耕一達の庇護の下から離れる、ということだ。
それほどの危険を冒して、一体どうしようというのか。
「潜水艦。
…あなた、信じてるんでしょう?」
大きく息を吸い。
そして吐く。
あの高槻という最低な、そして極めて憐れな人間の、最期の言葉-----の、ひとつ前。
『潜水艦が、何処かにある筈だから、それを、捜せばいい』
その言葉を、思い出してみる。
ええ。
あたしは、信じている。
だから、晴香の目を真っ直ぐ見て、答える事ができる。
「信じて、いるわ」
しかし返ってきたのは、意外な答だった。
「あたしはね…信じていないの」
「……」
だったら、何故?
その疑問を、慌てて飲み込む。今は晴香の言葉を待つべきだ。
「あたしの…人生は。
あたしの人生は、高槻と言う男ひとりに踏みにじられたようなものだから。
ここに来る前も。
ここに来てからだって、そうよ」
悲しみと怒りが、複雑に交じり合った、暗い感情がくすぶっている。
「あたし自身の純潔。
ここで出会った仲間。
ここに来る前からの仲間。
あたしは高槻のために、たくさんのものを失っているのよ」
ああ…なんということだろう。
最初の放送から、何かの因縁があるだろうということは解っていた。
-----しかし、ここまでとは。
あたしはしばらく言葉もなく、ただ晴香の演説を聞いているだけだった。
しかし、ようやく言葉が切れて、あたし達は目を合わせる。
「だったら、何故?」
溜めていた言葉を放つ。
ちょっとした間があいて、返ってきた答は、これまた意外だった。
「七瀬…あなたを、信じているのよ」
晴香は照れ臭そうに、そっぽを向いて誰に言うともなく、さらりと風に流した。
-----全て、解った。
高槻や主催者への憎しみも。
蝉丸さんや耕一たちと、あまり話さないのも。
少しはましとは言え、他の女の子達と話したがらないのも。
心の傷の…全てが、見えた気がした。
眩暈がする。長湯をしすぎたかもしれない。
そんな関係のないことを思いながら、あたしも湯船からあがり、返答を待つ
晴香の隣までぺたぺたと歩いた。
「…解った。
一緒に、行こう」
手をさしのべると、晴香がそれをガッチリ掴んで言う。
「七瀬…ありがと…」
なんだか湿っぽいな、そう思って。
あたしは、にっこり笑って付け加えた。
「これで貸し借りなし、よ?」
たぶん、余計な一言だったけど。
…二人笑えたから、それでいいじゃない?
癒えない傷など、ありはしないのだから。
今はこれで、いいじゃない?
【七瀬留美 巳間晴香 怪我人を任せて、潜水艦探しを決意】