Pain
閉めきられた小屋の中、些細なことで熱くなった熱気も相まって、室温は異常に上昇していた。
「まったく…暑いわね〜…ふぅ〜……」
結花が服の胸元をパタパタと扇ぐ。
「……(じぃー)」
「……(じぃー)」
「コラ、そこの男二人!見るなぁっ!」
その胸元へ注がれる視線に気づいてそこを手で覆い隠す。実際は特に何が見えたわけでもなかったが。
お世辞にも、結花の胸は扇いだ程度で覗ける程豊かだったとはいえない。
「頼む…水をくれ…」
記憶を失ってるので正確には分からないが、かなりの間水分補給をしていない気がする。
祐一が覚えている限りでも、かなりハードに動いていたわけで。喉の渇きは頂点に達していた。
「仕方ないわね…はい…と言っても北川君、あなたのだけどね
一応武器は抜いてあるから」
祐一と北川の前に軽くなった鞄を放り投げながら、結花自身もまた自分の分の水分を補給する。
「お、サンキュ」
北川が鞄から自分の分のペットボトルの封を開けると一気にラッパ飲みでそれを飲み干す。
本来はそんなことをしている余裕などないのだが、体は正直だった。
「なあ、北川、ガサツ女、ちょっといいか?」
「なんだ、相沢?」
「誰がガサツよ…」
「俺に、どうやって飲め…というのだ…」
祐一は、手を縛られている。
「ヨガの使い手でもない限りこの態勢で水を摂取することなど不可能だ」
「仕方ないなぁ…口を開けて上を向け!相沢!」
「へっ!?いや、俺が言いたいのはいいかげん縄を解いて欲しいってことなんだがって…ガボッゴボッ!!」
「覚悟、相沢っ!!」
そう言いながらも律儀に上を向いて口を開いたのが運の尽きだった。
開け放たれた口に容赦なく注がれる水の雨。
「ゴボッ…ゴボッ…ゲボッ…(北川…やめでぐれ〜)」
口から、目から、鼻から、水が溢れては祐一の体に染み込んでいく。
「あんたたちってバカよね…」
「ああ、そうだ結花ちゃん」
「結花でいいわよ」
「じゃあ結花、さっき見てた本を見せてくれ」
北川が、空になったペットボトルで肩を叩きながら、そう切り出した。
「本って…参加者名簿のこと?」
「この状況でラブリーな恋愛小説が見たいとでも思うか?」
「あんたならやりかねないけど…まあ、いいか」
ポン…と北川に投げられる名簿。
先の飲料水の時もそうだったが、結花はまだ決して無防備に二人に近付く、ということはしなかった。
(それって、悲しいこと…だよな)
祐一は思う。
(少なくとも俺は、あいつ、いや、この三人の少女達を信用できなかった)
いきなり気が付いたら縛られていて…他に危害を加えられてない(軽く殴られたが)とはいえ、
信用しろ、という方が無理な話だ。
だけど――
(おい、北川…)
(なんだ、相沢)
結花に聞こえないような小さな声。
だから、北川もまた同じようにそう返す。
(できたら、あいつらを信じてやりたい…って思うのはやっぱりこの島じゃ甘い考えなのかな…)
悲しみを胸にしまって。ただ生きる為に殺す、ではなく、みんなで生きて帰ろうと前に進みはじめた少女達を、
(できたら…信じてあげたいと、思ってる)
記憶を呼び戻したら、そんなことは言っていられなくなるのかもしれない。だけど――
(……)
(やっぱ、甘いか?)
結花から渡された本を開きながら、
(さあな…甘いといっちゃ甘いけどな。…だけど、人間として間違ってると思っちゃいないぜ)
(……サンキュ)
(だけど、この状況は、打破しないとな)
この、捕まっているといっても過言ではない状況を。
パラパラと本をめくる。
「ああ、こいつだ…」
一つのページで北川の指が止まる。
「何?」
「俺達を襲った男だよ。…ほんとにいきなり襲いかかってきやがった。
長瀬祐介か…特殊能力が電波?何だそりゃ?頭が電波ってことか?」
祐一と結花に、その顔写真を見せびらかす。
本当にどこにでもいるような一介の男子高校生といった風貌だった。
「長瀬…ねぇ…」
ここには結花しかいなかったが、芹香やスフィーがいればまた違った反応があったかもしれない。
それは、今の祐一達には分からないことだった。
「まあ、いいか…。とりあえずそいつは要注意人物ってことね」
「そうなるな……(これでよしっ、っと…)おい、相沢!お前も見ておけよ。…何か思い出すかもしれないだろ?」
全員の死角で何かしながら、北川が祐一に本をよこす。
「…ああ」
あまり気が進まない風に本を受け取る。
「あのさ、一応私たちの本なんだから足でページめくらないでよね…」
「仕方ないだろ…縛られてるんだからさ…そろそろ解いてくれよ…」
「……」
肯定も否定も。それに対する返事はなかった。
ア行――1ページ目に自分の名前があった。男子001番相沢祐一。
(この名前に引かれた赤線は、死んだってことなんだろうか…)
自分と、女子005番天野美汐の間に載っている、眼鏡の女、そしてその次の母子の内、母と思われる女性の名前には赤線が引かれていた。
それが死人だとすると、ア行にはずらりと死人が並ぶ。
自分や結花を含めて5人。それ以外の名前に引かれた赤線の意味を想像して、軽く眩暈がした。
カ行――カ行の人間は多かった。
生き残りも多ければまた、犠牲者も…
ある二つの名前で、祐一の手が止まる。
「どうした、相沢…?何か思い出したか?」
「分からん…この親子の顔を見てると…何故か心が騒ぐんだ…知らない奴なのにな」
「神尾晴子と神尾観鈴か…一応お前の記憶を取り戻す鍵かもな」
「いや、そんなんじゃなくて…いや、なんでもない」
漠然と胸に込み上げる嫌悪感を振り払って祐一は再び次のページに目を通す。
(舞…佐祐理さん…)
舞と佐祐理の――赤線の引かれた名前を見つける。
舞達は結花らと一緒に行動していた…という。
(もしかしたら…あいつらが途中で佐祐理さんや舞を…)
どす黒い思いが祐一の頭の中をよぎる。
(いや、そんなはずない…よな?…こんなことばかり考えてたらいつか俺が壊れちまう…)
その二人に引かれた赤線は異様によれていた。
(さっき、できたら信じてあげたい…と決めたじゃないか…
たぶん、彼女達はこの線を引くのをためらったに違いない。
第一そんなことする奴等なら俺達は今、ここで生きてるはずがない)
利用する為…という可能性だってあるにはあるが…無理矢理そう思い込む。
張り裂けそうな悲しみを振り払って次のページをめくろうとした祐一の手が再び止まる。
「どう…した…?」
そのページに倉田佐祐理の名があることを考慮してか、今度は幾分遠慮がちに北川が訊ねてくる。
「……こいつ…知ってるか?」
低い声。
倉田佐祐理よりも二つ程前、男子033番、国崎往人の顔を指差しながら祐一が呟いた。
「知ってるのか?」
「いや、知らん」
「おいおい…」
「だが、記憶を失う前の俺は知っていたのかもしれない…」
その男の目を見ているだけで浮かび上がってくる奇妙な、だけど確かな激情の感覚。
(なんで俺はこんなことを考えている…?これって…憎悪…なのか?)
よく分からない。力無く、祐一が首を振った。
北川と、祐介に殴られた傷が痛む。
「なんだか…気分が悪い…な」
この島に来て、いや、この島で覚えている限りでは今までで一番激しい頭痛が祐一を襲う。
(この本すべてに目を通してしまったら…俺は本当に壊れてしまうんじゃないだろうか…)
たとえようのない漠然とした不安が祐一の全身を包み込んでいく。
「大丈夫か?」
「ああ…心配かけてすまない…」
「国崎往人…ねぇ…あんた達からその名前が出るなんて意外だったわ…」
「…お前は知ってるのか?」
「いや、知らない」
「おいおい…」
再度、北川が同じ台詞を吐く。
「いろいろあってね。今そいつ探してるのよ」
「いろいろ?」
「分かんないけど。その写真だけで芹香さんのハートをゲッチュした人…かな?」
「ゲッチュて…」
「そいつ、危険なの?」
「分からない…」
祐一が頭を再び横に振った。
「あんた分からないばっかりねぇ…頼りになんないなぁ…」
確かに、祐一はここ最近頭を縦に振った記憶がない。
「頼りにしようと思うなら、せめてこの待遇を改善してくれ」
「……悪いわね。悪気はないんだけど…もう、私の大切な友達を失いたくはないのよ。……分かって」
「……まあ、とにかくこいつも危険そう…だよな…特殊能力は法術?なんかの儀式みたいなもんか?」
その話題を逸らすかのように、明るく北川が言った。
「そいつ悪そうだから、私はあまりそいつを探すのは賛成してないんだけどね。
あんた達みたいに素直に捕まるようなマヌケには見えないし」
「ほっとけ!っつーかそいつもまた縛るつもりなのか?」
「信用できないから…ね。私だけならともかく、スフィーや芹香さんまで危険な目にあわせたくないし。
もう、仲間を失うのは…たくさんなの」
「……」
北川の話題を逸らそうという意図は、果たせなかった。
つまり、祐一と北川のこの処遇はすべて結花の独断で取り決めたこと…という話。
(…まあ、気持ちは分かるけど…な)
「最初は、違ったのよ。最初の頃の私はそんなんじゃなかった。
最初から…初対面の人を疑ってかかるなんて…してなかった。
だけど今は――私ももしかしたら…もう狂ってしまってるのかもしれないね」
それに対する男二人の答えはなかった。
男子040番 坂神蝉丸――
長いカ行を終え、サ行へと目を通す。
(……)
真琴までは知らない名前が続く。
さっと読み飛ばす――はずだった。
(…女子043ば…ん……里村…あか…)
パタッ!!乱暴に足で本を閉じる。
「どうした相沢!?もういいのか?」
「……ああ……」
全身から冷や汗が滲み出る。
黙っていても気だるい暑さだというのに、いきなり冷水を浴びせられたかのように体が冷え切っていった。
まあ、この状況で本当に冷水を浴びたら気持ちいいだろうが…今の気分は最悪だった。
(今のは…茜?)
昔、一年もの間、同じ時を過ごした幼馴染み。
本当に好きな人。
(いる…はず…ないよな…)
無理矢理肩で額の汗を拭う。
(そうだ…よな…いるはずが…それに同姓同名だって可能性も…)
だけど、一瞬見えたその写真は、確かに昔見た茜だった。
「すまん…少しだけ…寝かせてくれ…」
「お、おい、相沢?」
ゴロン…というよりは、バキッっという音を立てながら床に寝転がった。
(そうだ、いるはずがない…いちゃならないだろ!?だけど…)
現実に、そこに茜の名前があった。まだ、赤線の引かれていない茜の名前が確かにあった。
(会いたい…茜…)
なんとかしてこの状況から脱出をしよう。
すぐにでも飛び出したい気持ちを押さえ、下唇を強く噛み締めた。
「すまん、俺も疲れたから寝るわ…結花、見張りヨロシクな」
「ちょ、ちょっと…」
北川もまた、本を結花へと投げてよこしながらゴロンと寝転がった。今度は、本当にゴロン、だ。
「なんて呑気な奴等なのかしら…ああ、頭が痛い…」
(おーい、相沢…起きてるんだろ?相沢〜!!)
祐一の目の前で、北川の口だけがそう動いた。
(…ああ)
本当は返事する気にもならない気分だったが、無視するわけにもいかない。祐一もまた軽く口だけをそう動かす。
(へへ…なんとかしてこの状況だけは打破しないとな…)
カリカリ…ペンを紙に走らせる…
(おい、北川、いつの間にそんなもん持ってたんだ?)
『ペンは水分補給した時に鞄からくすねておいた。紙はさっきの本の遊び紙から一枚ちょいと…な』
同時に何枚かのCDを見せながら…紙に書かれていく文字。
(…そういった悪巧みにかけてだけは天才的だな)
『ほっとけ。CDはとりあえず今は気にするな…紙のスペースは有限なんだ、あまり無駄なこと書かせるなよな』
お前が勝手に書いてるんじゃないか…と言ってやりたかったが、本当に紙の無駄なので黙っておいた。
『なんとか、ここから脱出しよう』
コクリ…結花に気づかれていないことを目の端で確認しながら、祐一が頷いた。
(ちょうど俺もそうしたいと思ってた。俺にも…会いたい人がいる…こんなとこでいつまでもSMやってるわけにはいかない)
真実を、確かめなくてはならない。あゆや名雪達みんなのこと、自分の記憶のこと、
そして、茜の名前があったことも。
いるはずのない、いると思いもしなかった茜の存在を確かめるために。
『もちろんだ…SMはお前だけだけどな。とりあえず、この状況をなんとかして覆さないと』
サラサラと、音を立てないようにペンが進む。
『俺だってこんなことしてる暇はない。どんな状況に置かれてても、最悪の事態にならないよう最善を尽くさないとな』
レミィのことを思い浮かべながら、北川が文字を綴る。
(最悪の事態って…なんだ?)
その祐一の問いに、北川は幾分躊躇したが。
『最悪の、事態さ』
ただ、それだけを書いた。
【相沢祐一 北川潤 脱出作戦会議開始】
【北川潤 CD再度入手】