暗黒


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空を敷き詰める、灰色の雲。雨は鹿沼葉子の身体から容赦なく熱を奪っていく。
雨のカーテンが、男の姿を曇らせる。男――である事しか分からない。
男は返事をしなかった。棒立ちのまま、応えない。攻撃の意志はどうか。いや、そもそも――
「――誰、ですか」
当たり前の疑問。攻撃の意志が無いのなら、応えてくれても構わない筈だ。
だが、男は応えなかった。雨は尚も男の姿を曇らせている。
どうする?近付くか。しかし、相手が武器を持っていたら危険だ……。
逡巡。武器が無いのが痛手だった。力の無い今、素手で男に勝つ事など不可能。
だが、逃げられる自信も無い。……まずい。絶体絶命……か?
「名前は無い」
ふと、返事があった。雨に掻き消されそうな程、軽い声。
聞き覚えのある声であった。つい最近聞いた。記憶違いでなければ……。
……いや、その返事こそが「誰なのか」を言い表している。間違いは無い。
溜息を吐いた。
「貴方、ですか」
雨のカーテンを潜り、姿を現すモノ。
少年。

「すまないね。驚かせてしまったかな」
「……全くです」
苦笑。浮かんだ笑顔は、いつもの少年と何ら変わりはない。
そう、何一つ、変わってはいなかった。
「……その人は」
「ああ、この男かい?」
少年は、肩に一人の男を抱えていた。だらりと腕を垂らしたその姿は、死人にも見える。
無論、葉子も死人かと思ったのは言うまでもない。
「管理者側の人間さ。ちょっと悪ふざけが過ぎるようなんでね――捕まえておいた」
「その男を、どうするつもりですか」
問い掛け。葉子の顔からは、厳しさが抜けていない。
少年は、ふむ、と一つ考える素振り。目は、葉子を見ている。無表情な視線――
「――そうだね、管理側の情報を教えて貰おうと思ってるんだけど」
何気ない様子で返す。しかし、それこそが、葉子の背筋にひやりとした感覚を与える。
管理側の人間が、そう簡単に情報を漏らすだろうか?否、漏らすまい。
当然の話だ。少年もそれは知っている筈。だが、彼は「教えて貰う」と言った。それは、つまり。
……無論、聞くまでもない事だ。
「……惨いことを」
「情けのつもりかい?」
「………」
答えない。心の中で、いいえ、と答えた。
その真意は。

雨の中。髪を伝い、水滴が地面へと落ちる。顔に張り付く髪が、煩わしい。
いっそのこと、切ってしまおうか。戦闘の時に邪魔になるとも知れない。
しかしそこで、思い出す。郁未の顔。彼女の髪は、綺麗だった……少し、羨ましく思う程に。
何となく、切るのを惜しく思った。
……しかし、咄嗟に思い出すのが郁未の顔とは。少し自分を改めた方が良いかもしれない。
「さて……」
随分と間を持って、少年が口を開いた。
「この辺に、人の多い場所は無いかい?出来れば、武器を持っている人達がいい」
「何故、それを聞くんですか?」
「うーん、一人で行動してるとどうしても危険が多いからね。出来れば、多人数で行動出来る方がいい」
当たり前だ。一人の辛さは、知っている。いや、知らされた、が正解か。
人が多いと言えば、今さっき出てきた所だろうか。多数の人の気配。飛び出してしまったが、あそこには何人居たのだろう。
教えられるとすれば、あそこしか無いが――
「……いいえ、知りません」
口から出たのは、そんな言葉。無論、操られているわけでもなく、自分の意志で言った事。
少年は、困ったな、といった顔を見せた。それを見ても、葉子は己の嘘を改める気は無い。
――違和感があった。それは、些細なもの。
目の前に立った少年は、一つ前に会った時と何ら変わらなかった。口調、雰囲気。そして笑顔。
だが、この状況に於いて、その違和感は致命的なものだった。
この島に来て、三日。狂った島に突然運び込まれ、三日だ。
その状況に於いて何一つ変わらない、そんな事が有り得るのか?いや、そんな筈は無い!
違和感は、葉子の中で不信へと変わっていたのだ。今や、彼女の目は、睨むような目に変わっている。
それを見てか――少年は溜息を吐いた。
「……まぁ、しょうがない、か。ゆっくりと探すよ」
くるりと踵を返す。雨の向こうへ、消えていく。
声だけが、雨を潜り抜けて届いた。
「君は、本当に賢い子だね――」
そして、雨の向こうの影が消える。

10秒。それだけ待って、葉子は再び駆け出した。



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