偽りの形見
剥げた大地。粉砕された草木。頬を幾度と無く打つ、水滴。雨だ。
晴子はその中で目を覚ました。
痛みと、息苦しさ。草陰に、転がり込むようにして倒れていた。
すぐ隣にあった木が真っ二つに折れている。幹は30cmもあった。
木が、身代わりになったのか?
少し首を巡らすと、折れた木の半身は案外すぐに見つかった。転がっていた。10m程に先に。
ぞっとする。一歩間違えば、自分がああなっていたのか?
だが、今生きている事には違いない。折れた木に、そっと感謝する。
立ち上がる。と、走る痛み。肩からではない。腕からでもない。足?
何となく見やる。なるほど、原因は知れた。折れた枝が突き刺さり、傷から一本の紅い川が流れている。
細い、細い枝だ。貫いてもいない。降りしきる雨に濡れている。抜き取ると、少し血が出た。
適当に縛り付ける。結局、左の袖も無くなった。
「――観鈴?」
呼び掛ける。何処にいるのかは知らない。倒れているのだろうか?姿は見えない。
返事は無かった。
「居候?」
さらに呼び掛ける。図体も態度もでかい男だ。倒れていても、見える筈。
それでも姿は見えなかった。返事も無い。
それだけではない。少年も。あの少女も。そしてあの男も。
誰も居なかった。誰も。誰一人として、動くものは無い。虫一つ、見当たらない。
「居候?……観鈴ッ!」
声は返らない。何処だ。何処にいる?
倒れているのかもしれない。万が一、傷を負っていたら?
自分は枝が刺さっていた。二人に何が刺さっているか知れたものではない。
細い枝でも、目に刺されば死にかねないのだ。自分は運が良かったに過ぎない。
名前を叫ぶ。観鈴の。往人の。決して届かない、叫び。次第に、その声は悲痛なものになっていった。
雨の水滴が喉を打ち、思わず咳き込む。ようやっと、悲鳴のような呼び声が止まった。
喉が痛かった。何度叫んだ?知るか。数えてなどいない。
今が何時さえも解らない。自分が何処にいるのかすら解らない。
喉が痛い。ああ、目が、熱い。泣いているのか?違う。どうして泣くのだ?何故?
……何でおらへんのやッ。観鈴!
喪失感。気が狂わんばかりの、焦り。もはや声など出なかったが、それでも名を呼んだ。
隣に居た者。護るべき人。狂気の中、狂気の島で、一つだけ、己のココロを繋ぎ止めた"鎖"。
あの子がいる。それだけで、晴子は"普通"でいられた。どんな時も、後ろにあの子が居たから。
何度も、自分の側から離れた。その度に、感じた、焦り。走り出したその背中が、死へと向かっているようで。
まるで、羽が生えているようで。
いつか、共に居た者が、泣いていた時。晴子は、観鈴の話をしてやった。往人の話をしてやった。
彼女は泣きやんだ。笑ってくれた。嬉しかった。まるで、二人が、彼女を救ったようで。
だが、彼女はもう居ない。そして今、自分は、泣いている。
しっかりしぃ、自分。あさひちゃんに笑われんで。
それでも涙は止まらない。悔しかった。自分を殴りつけたかった。腹立ち紛れに、叫んでいた。
時折走るイメージ。血の海で、倒れる二人。お母さん、お母さん――苦しげに、名を呼ぶ声。
違う!二人は生きている。そんな筈は無い。勝手な妄想だ。しっかりしろ。前を見ろ!
再び走るイメージ。無視だ。前を見ろ。名を呼べ。声を出せ!
白光。強烈な光。消えていく景色。光に包まれる、二人の姿。痛い程に鮮明なイメージ。
止めろ。ふざけるな。そんなものは見ていない。そんなものは見ていない。そんなものは見ていない。
二人は生きている。血も無い。死体も無い。何処かに逃げたんだ。そうだ。そうに決まってる。
黙れ!溶けるわけがない!止めろ。止めてくれ。観鈴。居候!目が痛い。観鈴!
「―――」
もはや声など出ていない。口だけが、形を刻む。涙と、泥。歪んだ顔。
血の滲む傷口。縛り付けられた布は、既に真っ赤だった。
見えてくる、剥げた大地。既に三度も見た。ぐるぐると、同じ所を走っているのだ。
もはやそんな事にも気付きもしない。怒り。焦り。そして、渇望。
狂っていた。間違いなく、それは、狂っている。
光を失った目が、何かを捉えた。草の中、雨に濡れて転がる物。
シグ・ザウエルショート9mm。
ふらふらと、歩み寄った。既に走ってすらいない。一歩、一歩。倒れる寸前だ。
ようやっと辿り着く。しゃがみ込んでそれを拾い上げた。
やっと、見つけた。でも、それは観鈴ではない。観鈴ではなく。
「観鈴」
ぽつり、と呟いた。声のない叫び声よりも、ずっと、ずっと明瞭な声で。
持ち主は居ない。誰も居ない。たった一つ、一つだけ、残された銃。
目が熱い。熱い。泣いているんだ。それだけ解った。
立ち上がりもしなかった。ただ、ただ泣き続けた。泣き声が、雨の中に、消えていく。
自分が、倒れていた事にも気付かなかった。落ちていく。奈落の底へ。
そこで見た。思い出す、爆発の瞬間。
白光。衝撃。そして、半身が溶け、消えた、愕然とした顔の、観鈴。
それは明らかな、自分の記憶。間違えようのない、記憶。
つまり、観鈴は死
悲鳴。
最後に、晴子の意識は闇へと落ちた。
【残り22人】