綱の上の踊り手
例えば、怒りに我を失いながら、悲しみに涙を流す。
相反する二つの感情の、両方を激しく行き来する。
例えば、憎しみに身を焼きながら、愛しさに心を震わせる。
あなたは、そんな境遇に陥った事があるだろうか?
…いっそ落ちてしまえば、却って楽なのだと思う。
どちらかに決める事さえできれば、悩む必要などないのだから。
かすかに目を開く。
何かに顔を押し付けているのは、うつ伏せに寝転んでいるせいだ。
「くぁ……」
くるりと仰向けになり、目を開くと同時に大きくあくびをして、ぐっと伸びをする。
見上げる空の晴れやかさと、記憶に残っている雷雨との落差に、少なからず途惑ってみる。
私は、あの観鈴とかいう子に怒りをぶつけて、彼女を放り投げたあと、振り向きもせず去ったはずだった。
それから何があったのか、ちょっと整理してみる。
脚の痛みも感じなくなって、彼を探すために森の中へと入って…
「かみなり、だよ」
「わっ!」
突然目の前に被さるように現れた顔に、心臓が止まりそうなくらい驚いた。
一方的に、しかも乱暴な別れを告げたはずの観鈴が、そこに居た。
「あっ、あんたっ!どっから出てきたのよ!」
「にはは、ずっとここにいた」
疑問と共に、びしっと指した指を間抜けにおろしながら、冷静に状況を確認すると、どうやら気を失ったまま、
観鈴に膝枕されていたようだった。
濡れた木々の間を駆け抜ける風が、涼しくて気持ち良い。
いつまでも膝枕をされていては、言いたいことも言えないので、無理矢理体を起こす。
再び脚の感覚が戻ってきており、痛みに顔をしかめながら聞いてみる。
「…雷って、何がよ?」
「どうして倒れたのか、知りたいみたいだったから」
そう言って彼女は、傍らに倒れている巨木を指差す。
ぷすぷすと燻るそれは、落雷で倒れたものなのだろう、見ると鞄が枝に引っかかったままだ。
「倒れてきた木の、枝にぶつかって一緒に倒れたんだよ。
ほっといたら一緒に焦げちゃいそうだったから、観鈴ちん頑張って引っぱったよ」
「そっか…助けてくれて、ありがと」
あんなにも怒っていたのが、馬鹿みたいに思えてくる。
もちろん、彼女たちに出会った頃から、今の惨劇が始まったと言ってもいい。
だが彼女のせいではないのも、解っている。
…どうして私は、あんなに怒ったのだろう?
思考を巡らせて、過去の情報を吟味してみる。
すると、変わり果てた天気のせいか随分と昔のように思える、少年の言葉を思い出した。
『君たちは姫君とつながっている。姫君の分身が君たちの中にある』
『姫君の意識はいずれ君の我を飲み込むだろう』
…そう、”姫君”と彼が呼んだ存在。
私はその声を聞いていた。
『――脆いものよの』
あの声の主が、私を喰わんとする”姫君”なのだ。
相反する自意識に押し潰されていた、私の心の間隙を縫うように、彼女は現れたということだ。
いま正気を保っているのは、たまたま事故に遭ったショックか何かなのだろう。
それがラッキーだったかどうかは…解らないけれど。
毒気の抜けた意識が、自然と肩の力を抜けさせ、私は軽く鼻から息を吐いた。
ふと手を見ると、爪の間に違和感があり、全ての指先が赤く染まっている。
「なんだろ、これ」
「…な、なんでもないよ!」
慌てて観鈴が、自分の腰のあたりに手を当てた。
あまりに不自然な仕草に、ちょっと腹を立てて追求する。
「なんでもないって、どうしてあなたが解るのよ?」
無理矢理捕まえて、隠した彼女の背中側を、こちらへ向ける。
-----血だらけだった。
…つまり気を失って、うなされている間に、私がやったのだ。
おそらく彼女の膝に顔を埋めたまま、腰に手を回して力の限り引っかいたのだ。
「あなた…ば、馬鹿じゃないの?
そんなだから、へちょいって言うのよ」
「が、がお…。
だって、苦しそうだったから…」
じゃあ、あなたは苦しくないの?…と言おうとしてやめる。聞くだけ無駄だ。
この子は、そういう定規の持ち合わせが全く無い、稀有な存在なのだろう。
「光がね」
気恥ずかしい感謝の気持ちと、呆れた脱力感が私を無口にしていたが、かわりに観鈴が話し始めた。
「…光?」
「うん、ぱあって光が広がって。
雨も土砂降りだったのが、綺麗に晴れたよ。
それからずっと、気持ち良さそうに寝てた」
「…そう…か」
どうやら、偶然では無かった。
私のあずかり知らぬところで、何かが”姫君”を押し戻したのだろう。
少年という”姫君”の勢力があるように、それに敵対する何かが存在するのだろう。
しかし、それは私にとって好都合とばかりは言えない。
何故なら私は、彼に約束したからだ。
『あなたを助けるわ。それができないなら。あなたを殺してあげる』
『そうだね。君ならそう言うだろうと、思っていた。強いよ、確かに君は』
彼を、助けなければならない。
自分を見失うことなく、失われた彼を救い出す。
限りなく絶望的な目標を達成するために、私は立ち上がる。
「私、行くわ」
「え……」
思考に付いてこれない観鈴は、理解が及ばないようだ。
だから私は手をさしのべる。
それが精一杯の、感謝の気持ち。
「あなたも、一緒に来るでしょう?」
「にはは、ふぁいと、だねっ」
殺意の巨大な影と、希望の狭い光の小道の間。
私は、境界線上を、危うい足取りで歩いている。
それは、命綱の無い綱渡り。
私は激しく冷や汗をかきながら、踊り、笑う。
私の消える、その日まで。
【神尾観鈴 天沢郁未 改めて同行】