霧中。
この先にいるのが誰であれ、今自分がすべき事がなんたるかを、柏木耕一はよく理解していた。
人をこれ以上殺さない事。仲間を増やし、ここから脱出し、日々の生活に戻る事。
「俺達は戦うつもりはないんだ――」
再度耕一は呼びかける。
「脱出出来る可能性があるんだ、なら殺し合いなんてしなくてもいい」
まるで返事がない。誰もいないかのようだが、それでも気配は感じるのだ。
そもそも彰がこの森の中に人影を見たのがほんの少し前だ。
そのほんの僅かな時間に、それ程遠くまで動けるわけがないのだ。
はぁ、と息を吐く。すぐ、ほんのすぐ近くに気配を感じる、感じている。
じりじりと暑い。その滴る汗が耕一を蝕む。
「彰、もう少し先行する、今度は横にも気を遣ってくれ」
「判った」
そして、また一歩、森の深くに入る。
そして、また一歩。
だんだん、深い深い森の中に落ちていく。
がさり、と腐りかけの落ち葉を踏みつぶし、入り組んだ枝の下をくぐり抜ける。
そろそろ相手の姿くらい見えてもおかしくない。
相手が走る音は聞こえない。この落ち葉の中ならば、走ればきっと派手な音がするだろうから。
――注意を払え、すぐ横で発砲音が聞こえるかも知れない。
目を閉じ、風のほんの揺らぎにも気を払う。
背後で、ちょうど彰のいる辺りで、僅かに大気が揺らいでいる。
大概冷静な彼も、その冷静なりに焦っているのだろうと思う。
「耕一」
彰の静かな声が、その焦燥の割に、不可思議に冷静に感じた。
「――どうした?」
息を吐いて振り返る。
気付くとほんの5mばかり背後、自分のすぐ後ろを歩いていた彰は、少しばかり肩を竦めて
「少し、先行しすぎじゃないですか? あまり離れすぎると危険だと思うんだけど」
「一応キャノンを持ってはいるから、それほど危険ということもないだろ。
――だが、まあ――それもそうだな。まあ、取り敢えず、戻ろうか」
彰は中華キャノンとベレッタを武器庫から持ってきて、こう云った。
「キャノンだと後ろからの援護が難しいので、耕一がキャノンで僕がベレッタ、って事で良いかな?」
……いや、別に腰を振らなくてもキャノンは使えるんだけどさ、やっぱ印象深いわけじゃない、あの俺の姿ってばさ。
きっとあの時俺の姿を見ていたものはこう思っているのさ、中華キャノンは柏木耕一にこそ相応しい武器だ! ってな。
千鶴さんたちに見られたら俺はどうするというのだ。きっと軽蔑のまなざし、或いは偽善者のまなざしで、
千鶴さんはきっといろいろ呟くのだろう――。
まったく、この世で一番乙女に相応しくない武器だよ。……乙女? まあそれは……いいけれども。
だが、そう云いながらも、右手に握ったキャノンが何故これほどに愛しい。
また局部に装着して腰を振りたいと願っている俺がいる。
俺ってやつは――。
そんな事を考えている耕一を、しかしまるで構いもせず、彰も云う。
「ええ。僕も今は防弾チョッキを着てないし、武器はナイフとこの拳銃だけだ。
慌ててて――すいません。相手が混乱してマシンガンでも乱射したらお終いですから」
耕一は小さく息を吐く。仲間を増やせなかったのは残念だが――。
「よし、戻ろう」
そう云って振り返り、立ち止まったままの彰の横を通り抜けようとした時だった。
彰が、ひゅんと左腕を上下させた。
あまりに素早い手の動きで、それが何を意図しているものか、耕一には判らなかった。
同時に、自分の肩口に、何か鋭い痛みが走る。
「――!」
左肩に、何か刃物で切り裂かれたような痛みが走るではないか!
「あぁぁあっ!」
思わず悲鳴を上げる。
分厚い筋肉の間の隙間を通すかのように、その痛みは腕を貫通する。
二の腕までの筋肉が、真っ二つに割かれたのではないか?
「ぐぁ――っっ、あぁ、」
何処か、鋭い枝にでも腕を引っかけたか? しかしそれだけでここまでに至るだろうか?
敵が襲いかかってくるまでにはあまりに早すぎる。
なんというお人好しなのだろう、俺は――!
耕一はその痛みの原因を探ろうとして、左を見ようとして、漸く事態を悟る。
ガシッッ!
彰の右拳が自分の顔面に襲いかかる! 油断しきっていた耕一は、口の中が切れるのと軽い眩暈を覚え、
そしてその勢いのまま、後ろの木の幹に叩きつけられた。
ガンッ、と強く頭をぶつけさせられ、軽い脳震盪が身体を支配する。
その衝撃で持っていたキャノンも取り落としてしまう。
そして、自分の袖口を掴みながら上目遣いで睨む彰は、その乱暴な腕力で、
一瞬力の抜けきっていた耕一の身体を、ぐい、と僅かに持ち上げると、
がさり、という落ち葉の潰れる音と共に、大地に叩き伏せた。
軽い脳震盪が自由を束縛する。何があったかを冷静にまとめる思考すら浮かばない。
だが、それでも彰の何かしらのつぶやきを聞いて、漸く耕一は理解する。
自分よりも10cmは低い、体重は20kgは違うだろう体格の彰が、その腕力でもって自分を制圧しているのだ!
そして悟る、自分の左腕を切り裂いたのは、紛れもない、この七瀬彰なのだと。
「――耕一」
耕一の上にまたがりながら、低い声で、その七瀬彰は、云った。
「彰っ、何をッ」
どくどくと血が流れている。赤い。
その血が、彰の頬にぴちゃりと付着しているのを見て、それに、
いつか何処かで感じていた、「負の性質」を感じざるを得なかった。
そして、異常な光と闇に充ち満ちた目を見て、耕一はその直感を得た。
まさか、既に鬼が彼を支配していたのだろうか?
敵が近くにいる事など狂言で、俺に単独行動させる事で、撃破する。
確実に勝てる戦いを。それが、正しい獣の習性。
だが、彰の口から呟かれたことばは、鬼の思考とか、獣性だとか、
そういうものからはどうしようもなくかけ離れた、一見冷静に聞こえることばだった。
「この、泥棒猫」
だが、その実、それは不可思議と云わざるを得ないことばだった。
――何を、言っている?
ともかく、どうであれ今は彼を止めなければならない。
脳震盪は殆ど治まった。
今自分の身体を抑え付けている腕力は、鬼のものにしてはあまりにか細い。
先程は、油断していた自分だったからやられただけなのだ。
ならば体格で優る自分が負けるはずがない――
だが。
「甘いよ」
身体に力を入れようとし、そして身体を起こそうとした瞬間、彰はナイフを右手に持ち替えて、
先程切り裂いた自分の左腕に、もう一度それを突き刺した。
瞬間、力が抜ける。左腕が切り落とされるかのように、どうしようもなく痛みが走る。
悲鳴をあげるのが相手の思う壺だとは判っているが、それでも耐えきれないほどにその痛みは重い。
「ぐぁぁぁぁッ!」
悲鳴を聞いても彰は表情一つ変えず、ナイフを回転させながら体重をかけ、さらに深くに刺す。
血がまた溢れる。噴水のように上がるその赤いシャワーは、彰の顔を、再び真っ赤に汚す。
真っ赤に。
身を切られるような痛みに耕一は悶える。力が入らない。ちょうど、恋をしていた時のようだ。
(つーか、実際切られてるんじゃないか!)
そんなツッコミをいれている余裕もない。
今自分を殺そうとしている彰の、その目はあまりに暗い。
襟元を抑えられたまま、次は、右肩にもナイフを刺し込んでくる。
身体を動かそうとしても、
そして案の定それを抉るように、掘るように、刺しこみ続ける。
「やめろッ――、やめろっ、彰、」
鎖骨に当たっている! その骨を削るように、まだ抉る。
あれ程に優しい目をしていた頃が嘘のように、
今まで共に戦ってきた戦友に見せる表情とは思えないほど、冷たい目。
耕一の哀願も届かず、彰はまだ、まだ抉った。
「やめろ、やめて――」
やがて哀願は、――絶叫に変わった。
その声を聞いて、漸く彰はナイフに興味をなくす。ナイフは刺したまま、彰は小さく息を吐いた。
次に彰は、その拳で耕一の顔面を殴りつける。
ガシッ、と鈍い音を立てて、顔面がずれるほどの衝撃を受ける。
「あぐっ!」
多少なり腕力が強まっている上、自分の失血状態ではそれに抗うほどの抵抗力もない。
「……やめろッ、……彰ッ!」
ガシッ!
そのずれた顔面を、おなじ右拳で、首が捻れるのじゃないかと思うくらいの力で殴りつける。
「あぅっ!」
多少なり、口の中が切れる。歯も何本かずれた音がした。
「やめろ、やめろッ!」
ガシッ!
「ぅぁっ……」
なんていう力だろう。三発目のその攻撃は、耕一に抵抗の意志をなくさせるに充分な攻撃力だった。
ただの人間の腕力にここまで対抗出来ないのは、果たして失血の所為だけだろうか?
「くそッ! やめろっ――」
それでも力を入れ、立ち上がろうとする耕一を見て、彰は不愉快そうな目をして立ち上がると、
その真っ黒な靴の踵を、無慈悲に耕一の顔面に振り下ろした。
ガツンッ!
「ぁぁぁぁっ!」
それで鼻が折れたのは間違いないだろう。だらだらと流れてくる鼻血と折れた歯が、
耕一に抵抗させる気力を完全に失わせた。
「やめて、彰っ――やめ」
そのどもった声を聞いて、彰は無機質なまなざしで、溜息を吐いた。
漸くにして、その拷問は終わった。
真っ赤に染まり、黒く光る刀身を見つめながら、耕一は絶望的な気持ちになる。
そこから溢れ出てくる血液の量からして、動脈が切れているわけでは無さそうだ。
それでも頸動脈に近いそこを抉られている痛みは計り知れない。
少なくとも腕の方は動脈をやられているだろう。
血がどくどく流れ、身体からはだんだん力が抜けていく。
常人なら既に致死量だろう。それでも、常人より体力の高い耕一は、意識を失わないで彰を見る事が出来た。
だが、反抗する気力は何処にもない。持っていた拳銃は既に彰の手だし、体力も既に完全に失われた。
生きているのが精一杯だろう。
「どうして、彰、何が……」
「泥棒猫め、まだそんな口を聞く余裕があるんだな」
彰は――心底、悔しそうな顔で言う。何故そんな表情をする?
「どろぼう、猫、だと?」
何だ、それは? さっき初音ちゃんを抱きしめていた事か、なあ、あきら
「おかしな話だよ、人の大切なものに手を出せるような奴と、戦っていたなんてな」
「――何を。何を、言ってる――」
判らない、彰、何を
「黙れよッ! ……僕だって、なんでこんな事してるか判んないんだよッ!」
なんて、おかしな目の色だ。耕一は、茫洋と、そう思った。
ふと、彰の興味が――自分から失せた。
ナイフとキャノンを森の中に放り、拳銃を右手に強く握ると、
「初音ちゃん、初音ちゃんが待ってる――」
彰は立ち上がると、そんな事を呟いた。
危険だ、今、彰を向かわせると――
「やめろッ……」
身体を起こして、耕一はなんとか彰を止めようとする。
だが、彰は心底不愉快そうな目で、
「黙れよ」
傷ついた左腕を、その足で無慈悲に踏みつぶした。
耕一が何度目かの絶叫をあげるのを聞いて、彰は今度こそ、
「はつねちゃん」
そう呟いて、駆け出した。
止めないと、
そう思うのに、身体が動かない。
落ち葉の下で、耕一は口の中を汚している真っ赤な血を舐めながら、
「なんて、奴だよ、畜生」呟く。
あれは鬼の力ではない、と思う。
だが、油断していたとはいえ、自分との腕力差を殆ど感じさせない、悪魔のような強さ。
あれが、鬼の血を多少なり吸ったとはいえ、――ただの人か?
「何なんだよ、ちくしょう――」
初音ちゃんが、診療所が危ない。そう判ってはいるが、耕一のこの失血はあまりに大きい。
結局、その訳の分からぬ混乱の中、耕一は意識を失った。
【七瀬彰 いよいよ狂性増大。小屋へ向かう。武器はベレッタのみ。ナイフ放置。
柏木耕一 瀕死。辛うじて命をつなぎ止めている程度。誰かが発見しないと危ういかも】