夕べの祈り 序曲
予感は静かな確信へと。
青く輝く石が、初音の意識にある存在の接近を知らせる。
言葉やイメージではなく、それはただの感覚。
それでも確かな感覚。
――『鬼』が来る――
――人の中に、静かに確かに潜んでいる――
――攻撃本能剥き出しの、『鬼』が来る――
参加者の中でも鬼の血を引いている者は僅か。
初音の知りうる限り、全員『鬼』は制御できているはずだった。
ということは、この悪の『鬼』はあの人しかいない。
消えようとしていた命の灯火を、自分のエゴで引き延ばしてしまった。
その罪が罰となり遂に自分の身に帰ってきたことを、初音は認めざるをえなかった。
そして、あの時固めた一つの近い。
もしもの時は、自分の手で愛する人を殺す。そして自分も。
予測できてたことなのだ。今、その時がやってきただけなのだ。
運命に抗おうとする意志を、今の初音は持ち合わせていなかった。
精算しよう。
「皆、これから話すこと、真剣に聞いてくれる?」
ここにいる皆に示す確証は何もない。あるのは真摯な決意だけ。
「実は――」
お願い、どうか信じて……。
「初音ちゃん!」
ドアを開けて彰が叫ぶ。
室内には初音しかいなかったが、彰には構うことではなかった。
初音しか、彼の目には映らないのだから。
「早くここから逃げよう!
敵は今、耕一さんが足留めしてる。
彼ならきっと大丈夫だから早く安全なところへ!
あの男はただ者じゃない!」
早口でまくし上げる。
初音の反応は、ない。
ただ冷ややかな目で、彰を見つめるだけ。
「初音ちゃん?」
「その血は……」
冷たく通る、澄んだ声で、初音は喋った。
「耕一お兄ちゃんの返り血?
彰お兄ちゃん、怪我してないもんね?」
「あ、あぁ、最初は二人で戦ってたんだけど、耕一さんが……」
「それだけの怪我だったら、耕一お兄ちゃん無事じゃすまないよね?
その敵が彰お兄ちゃんを追ってきてるなら、今頃追い付いてるはずだよね?」
「初音ちゃん?」
「もう、終わりにしようよ……彰おにいちゃぁん……。
耕一お兄ちゃんを殺したの?」
朝に響く、鳥の初音のように。
哀しい意味を持った言葉が、小屋の中に響いた。
「あれはっ、耕一の奴が悪いんだ!
初音ちゃんを奪おうとしたからっ、だからっ!
初音ちゃんは僕のものだろ?
僕は初音ちゃんを愛しているし、初音ちゃんもそうだろうっ!?」
「彰お兄ちゃん、自分が何を言ってるかわからないのっ!?
本当にもう狂っちゃってるんだね!? 戻れないんだね!?
鬼の血なんてあげなければよかったよ……それでもお兄ちゃんが好きだったからっ!!」
右手を上げる、銃を構える。
「死んで欲しくなかったんだよぉっ!!」
発砲。銃弾は、彰の右腕を貫いた。
彰から見えない位置で銃を構えながら、マナは思う。
どうしてこの島には、こんなに悲しい想いばかりなのだろうかと。
初音から彰はきっと狂っている、その原因は私にあると聞かされた。
そして、それを償うためにも、自分の手で彰を殺してその後を追うと。
とても嘘をついているようには思えなかった。
初音の決意と想いが伝わって、それはきっと真実だった。
マナの、スフィーの、北川の制止も聞き入れることはなかった。
聞き入れさせるのは、所詮無理な話なのだ。
北川とスフィーはここにはいない、初音の意向でマザーコンピューターへと向かっている。
北川は最後までしぶっていた。これ以上、誰かが死ぬのは御免なのだ。
しかし彰がここに悪意を持って向かっているとすると、時間はない。
人にはそれぞれの役目がある。
彼は去り際に「後は頼む」と言い残した。
涙をたたえて。
(残念だけど、無理みたいよ……)
人にはそれぞれの役目がある。
今のマナと葉子の役目は『初音がしくじった時に彰を止めること』。
できるならば、『自殺する初音を止めること』。
どちらにしても、死者が出る道は避けられそうにない。
聖との約束を思い出し、自分の無力さに涙するしかなかった。
(無理そうでも。諦めはしないんだから。
誰も死なない方法を……考えろ……考えろ……)
実際、彰の攻撃の矛先は耕一だけだった。
耕一を排除すれば、他の者に危害を加えるつもりは『今は』なかった。
そんなこと、初音がわかるはずもなかった。
彰は右腕に痛みを覚える。
どうして、自分が撃たれるのだろう。
自分は何か間違っていたのか。
やはり彼女は、最初から自分のことなどどうでもよかったのか?
理性の混乱は、鬼のつけいる隙を与えるだけ。
初音と過ごした間の彼女の瞳は、いつも違う所を見ていた。
再会シーン。耕一と、初音。
偽りの記憶の洪水。
初音よりも強い力を持った同族がいることがわかった今、鬼にとって初音の存在はどうでもよくなった。
犯し、殺すだけの対象。
壊せ、壊せと、鬼の意志が彰の心に潜む疑惑と偽の記憶を活性化させる。
――僕だけが何も知らず、道化だったということか――
「初音ちゃん、信じていたのに……。
こんなにも君のことを想っていたのにっ!!」
彰は銃を、初音に向けた。
自分が狂ったという自覚もないまま、初音の想いもわからぬまま。
「彰おにいちゃん、私は、あなたを――」
――殺します。
夕べにはまだ少し遠い。
哀しい序曲は、始まったばかり。