長い道。(The Long and Winding Road)
「おはよーさん」
暢気に呟く女を見て、よく状況がつかめないまま、俺――柏木耕一は、目を覚ました。
一升瓶――何処で見つけたのか知らないが、ともかくそれを片手に自分の横でそれをごくごくと呑んでいる。
対して自分は、上半身が裸でベッドに横たわっていたのである。
女は自分の呆然とした様子を気にも留めず、救急箱の中から塗り薬と包帯を取り出すと、
何も云わずにそれを自分の傷口に塗りたくる。
「痛ぇっ」
「男の子やろ、我慢せぇ」
乱暴に傷口をえぐるように塗る。塗る。痛い。痛い。痛い。
「こら……傷深いわ」
顔を歪める俺を尻目に、そんな事を呟く。
「だがまあ、あんた男の子やし――すぐ治るやろ」
次の瞬間には少し笑って、そんな事を呟いていた。
「鼻も折れとるんちゃうん? 見せてみ」
優しいとは云い難い手つきだが、その声はあまりに優しかった。
意外にも、鼻の方はそれほど酷い状況でもなかった。血も止まっていたし。
手当てを受けながら、俺は溜息を吐く。
思い出すのは、意識を失う直前のこと。
彰――。
行かなければ、と思うのに身体が動かないのは、果たして肉体が傷ついているからだけなのか。
「君、災難やったな」
一通りの手当てが終わり、包帯で身体がぐるぐる巻きにされた後に、女は思い出したかのように云った。
俺は返事もせずに、ぼうっと天井を眺めていた。めまいがする。
ぐらり、と身体が揺れる自分の様子を見て、
「めちゃめちゃ血ぃ流れとったからな、なんか血が作れる食い物持ってくるわ」
と呟き、その見ず知らずの綺麗な女は、慌しく部屋を出て行く。
すぐに肉塊――生肉、か? を持って戻ってくると、
「ガス切れとったから火で調理できへんかったわ。まあ、肉の鮮度はうちが保証したる」
冷蔵庫の中にあったからな、と笑う。
ガスが切れてるのに、冷蔵庫を動かすだけの電気が流れているのか?
少し抵抗もあったが、俺は素直にそれを口にする事にした。
歯に力が入らない。だが、それをなんとか噛み切って、俺は乾いた喉にそれを無理やり詰め込んだ。
「うぇ」
――胃が、食べ物を受け付けない。入った瞬間にそれが逆流しようとする。
これほどまで弱ったのは久しぶりだ。だが、無理やりに俺は肉を飲み込んだ。
もう一口。喉が痛い。
もう一口。
身体に血が戻る実感はない。果たして、俺の身体はすぐに動くようになるのだろうか?
貪るように食べる俺を、きっと女は笑って見ていた。
生肉は、意外においしかった。
「――おばさん、本当に有難うございました。あなたの名前を教えてくれないでしょうか?」
「おばさん? わははははは、面白い事ゆーの、君は」
ガシッ!
女はその小さな拳を振り上げ、ぽかりと――(ぽかりなんて可愛い音ではなかったが……)自分の頭に叩きつけた。
「まあええわ。けどな、人に名前を尋ねる前に自分の名前を名乗るほうが先やないか?」
そう云う女は、やけに上機嫌に見えた。
俺は逆らわず「柏木耕一です」と、素直に名乗った。
「その耕一君は、あの彰、っていう子を止めないでもええん?」
次の瞬間――女は、そう云った。
びくり、と身体の震える感じがする。
俺は、――怯えているのだろうか?
――何故、彰は俺を殺そうとしたのだろう。
――何故、彰は俺を泥棒猫と呼んだのだろう。
考えても判らない。彰を止めに行かなければならない。
そもそも、自分は足が傷つけられていないのだし、右腕はそこそこに動くのだ。
眩暈がするとはいえ、あの診療所に戻れないこともないのだ。
なのに、何故身体が動かない。
「――あの彰君っての、きっともう、目的地に着いたんちゃうかな」
俯く俺の上で、彼女は言う。
「行かんのか?」
怖い。
そう、俺は、怖いんだ。
あいつに骨を抉られた瞬間を覚えている。肉を切り裂かれた瞬間を。
拳をぶつけられ、鼻を折られ、意識を失うあの瞬間、俺は確かに怯えていたのだ。
鬼の血が、きっと彰を狂わせているのだと思う。
そうでなければ、あんなに優しかった彰が、あれ程に豹変するわけがないのだ。
泥棒猫、という意味の判らない言葉も、鬼が何か関与していたと考えれば納得がいく。
きっと、その鬼の血が結局彰を狂わせてしまい、そして、力も与えた。
その鬼の血は、俺にだって流れている。肉体が強化されたといっても、自分のそれとは比するまでもないほどだろう。
だが、現に自分はねじ伏せられた。あの細腕に、殆ど抵抗することも出来ず。
理由はなんとなく判る。――腕力じゃないのだ、戦闘力は。
深層での強さ。もっと深いところで、今の俺と彰は、圧倒的に違う。
そう、確信があったからこそ――俺は、次こそ彰に殺されるという、そういう強い確信があったからこそ、
俺の身体は動かないのだと思う。動物としての本能が、俺の身体を萎縮させていた。
「なあ、行かんのか?」
女が再び尋ねる。俺の様子がだんだん落ち着いてきたからだろうか?
俺は答えることも出来ずに、そこで歯を食いしばる。
行かなければならない、という意思を、恐怖が覆っているのだ。
「なんや、あんた? 行かないんか?」
心底不思議そうな顔をして、女は俯く俺を眺める。
「さっきうちに呼びかけてたことは嘘やったんか?」
その言葉にも反応せず、俺は俯いたまま、唇を噛む。乾いた唇を舐めて、俺は大きな溜息を吐く。
みるみる機嫌が悪くなっていくのが判るほど、目の前の女はつまらなそうな顔になった。
つまらなそうという表現は適切ではなく、――彼女はたぶん、怒っていた。
「不甲斐ないなあ、あんた」
そう吐き捨てる。
「脱出できる手段があるんやなかったんか? ここから帰るんやなかったんか?」
そう――帰りたかった。きっと帰れる筈だと、思っていたのに。
いい加減腹が立ってきたのだろう、まだ俯いたままの自分を見て、きっ、と表情を歪ませ、
パンッ!
と、女は自分の頬を叩いた。
「――!」
「あんたなあ……ぬか喜びさせんといてや」
女は、本当に不機嫌そうな顔をした。
「あんた、きっと怖いんやろ、あんな貧弱な奴の事が」
「……――そうだよっ、俺は怖いんだよ、あいつが、彰がっ! 判るのかよあんたに、どれだけ怖いか――!」
顔を上げ、女を睨みながら、俺は女を見つめる。
一瞬面食らったような顔をしたが――女は、やけに冷静な目で、こう、ぼそりと呟いた。
「あんたがどれだけ怖かったなんかは知らんけどな、うちが怖い目におおとらんみたいな云い方をされるんはむかつくわ」
――失言だった、と思う。
なんて弱い人間なのだろう、俺は。
見も知らぬ、しかも自分を助けてくれた恩人に当たるなんて。
「――……悪かったな、耕一君」
次の瞬間には、女は笑って言っていた。その笑いは、嘲りの笑い。
「まあ、助け損やと思って諦めるわ」
大きく息をついて、女は立ち上がった。
「ここ、自由に使っててええ。うちには――どうせ、もう守るもんもないし、あの彰君って子を殺しにでも行くわ」
これ以上人殺しを跋扈させとくわけにもいかんしの、と云って。
ドアを開けて、女は部屋から出ていった。
俺はベッドの上で身体を起こして、これからの事を考えていた。
そうさ、彰がああなってしまった以上、もう――帰れることもないのだ。
もうきっと、初音も、あの診療所にいた全員が制圧されているだろう。
それに、自分はたくさんの血を失っている。
生き残るためには、ここで休んでいたほうがいいに決まっているのだ。
それなのに、俺が立ち上がっているのは何故だろう?
眩暈もする、戦ったところで勝ち目もない。
――決まっている。原因は、彼女が呟いた言葉だ。
――守るもんもないし。
そう、――希望はあった。まだ、守るべきものが、守れる形で残っている可能性が。
俺は眩暈のする頭を抑え、ずきずきと激しく痛む左腕と鎖骨を抑えながら、部屋を飛び出そうと、ドアを開けた。
「ん、見込んだ通りやったな」
――その部屋の外、ドアのすぐ横で、女は一升瓶片手に、笑って座っていた。
「うちは、あんたの、脱出するんだ、という姿勢を見て、少し救われた」
俺は彼女の横に座る。
「うちな、あんたの姿見るまで、このくっだらん殺し合いに乗ろうかと思ってた。娘が死んでしもうたんや」
ごくごく、と一升瓶に口をつけながら、ぷはぁ、と息を吐く。
「大切なものを守れんかった、その不甲斐なさでな」
「……」
「はじめから娘を守るために全員殺せばよかったとさえ思った。――そんとき、あんたの声を聞いたんや」
――脱出できる手段がある――ってな。女は笑う。
「大切なものを守るために、必死で動いてたな、あんた。うちは大切なものを守るために、まるで動こうとせんかった。
いつかきっと神様が助けに来て、うちら二人だけ救われる――なんてな」
「――俺は」
「うちが予言したる。あんたが守りたいと思ってるもんは、まだ、守りきれる場所にある。
今すぐあんたが走り出せば、きっと止められるくらいの危険に晒されてはいるけどな」
そうだ、大切なものを守るため。その為に今まで俺は、長い長い道を歩いてきたんじゃなかったのか?
「怖いことなんてないわ。うちは命かけて大切なもんを守れんかった、けど君は、命くらい賭けられるやろ。
君は十分強い。誰にも負けないくらい、強い! うちが保証したる!」
――そう、命を賭けて守りたいものがある。大切な人、そして、
大切な友達を。
「そうや。良い目になったな、耕一君」
「はい」
「それでええ。よおし、約束せえ。必ずあんたは生き残り、守るべきものを守るんや」
そう云って、晴子は拳を握り締め、天井に向けて掲げた。
「な、耕一君。君の拳、うちの拳に併せえ」
「――はい」
俺は拳を握って、その小さな、けれどしなやかな拳に自分の拳をぶつけた。
「うちの手に誓え、必ず生き残るって。次の死者放送ん時、君の名前が呼ばれたら、あんたは大嘘吐きや」
「はい」
「よおし、よく云ったぁ! うちの武器、一階にまとめて置いてあるわ。好きなの持ってってええで」
「うちは君の事を肴にして、ここで酒呑んどるわ――!」
そう云って、女は、本当に嬉しそうに笑い、俺の肩を叩いた。
俺と彼女は立ち上がり、階段を降りる。
まだ多少なり眩暈がするが――傷はだいぶ癒えた感触がある。
結界の中とはいえ、それなりに身体は丈夫に出来ていたと云うことだろうか。
女の武器のうちの一つ、ニードルガンを手に取る。このくらいの重さがちょうどいい。
「耕一君の武器、そこのテーブルの上に置いたるから」
ナイフと、キャノンだった。きっと彼女が回収してくれたのだろう。
準備を整え、俺は鞄を担ぐ。今から走り出せば、きっと守れる。そう信じよう。
喫茶店のドアを開け、俺はふと、振り返った。女は少しだけ悲しそうに、笑っていた。
ああ、と俺は思う。
「本当に、ありがとうございました。――名前、教えてくれませんか?」
この長い入り組んだ道の中で、
「――神尾晴子や、耕一君」
どれだけの人と出会い、
「――それじゃあ、行って来ます、晴子さん」
別れて行くのだろう?
「ああ、うちとの約束守ってや」
だが、今はまだ風の中。
「はい!」
振り返る間もないほどの、
「負けるなよ」
長い長い道の中で、
「――はい」
俺は、今だけは、ただ――前だけを見つめていた。
【柏木耕一 診療所へ。武器はナイフと中華キャノンと晴子のニードルガン。彰を止めるために行動開始。
神尾晴子 一人喫茶店で待機。何かしら思うことあって動かず。
耕一が目覚めたころ診療所ではどうなっているか…は、次の人にお任せです】