無力。


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その引き金を引いたのは、誰だったか。
血を流しながら苦しそうに蹲るのは、――七瀬彰、だった。

自分の胸元で、輝き続ける光。
それをぼおと眺めながら、柏木初音は、ぶるりと震えた。
上手く事態を呑みこめないのは当然だった。自分は、引き金を引いていない。
なのに、何故彼は苦しそうに蹲っているのだろう。
それは、ただ今飛び出した二人も同感だっただろう。
自分たちは構えた銃の引き金を引いた覚えは無い。
なのに、何故?
だが――答えはすぐに出た。
軽い音を立てて粉々に砕けているのは、初音の後ろの窓ガラスだった。
初音の頬を濡らすのは、紛れもない、彼女自身の血、だった。

流れた血が唇に至って、初音は漸く、自分が撃たれたのだという事を自覚する。
硝煙の匂いが、彰の手から立っていた。
狭いこの部屋の中では、その重苦しい匂いは一層心地の悪いもの。
血は、初音が先ほど撃った、右腕から流れていた。

――結局撃てなかった。震える指先は、引き金を引くには至らなかった。
わたしは、結局、そんな卑怯な人間だったんだ。
自分の後ろで待機していた二人に、自分がしくじった時の事を任せていた。
自分が彰より先に、引き金を引けなかったとき。その時、二人に撃ち殺してもらおう。
――馬鹿な話だ。
自分は、こんな小さな銃の引き金すら引けなかった。大切なものを失う事が怖かった為に。
偽善者じゃないか。この島にいる誰よりも、偽善者。
自分に向けて、引き金を引いた。彰はきっともう、壊れてしまっているのに。
まだ彰お兄ちゃんが帰ってくるかも知れないと、そんな幽夢を抱いていたのか?
自嘲気味に笑って、わたしは、自分の拳銃を彰に向けた。
自分とほんの2メートルも離れていないところで、外す筈もない距離で、
手を伸ばせば届くような距離で。

七瀬彰は、一人――激しく息を吐く。
何がそんなに苦しいのか、というくらいに。

それにしても、何故彼は、自分を撃ち殺さなかったのだろうか? 初音は、
そう、彼は自分に向けて引き金を引いたのに。自分の脳天に向けて、銃弾を放ったのに。
どうせなら自分を殺してしまえば良かったのだ。
そうしたならば、きっと自分は何も考えずにすんだのに。
何故?

――そうだ。決まっているじゃないか。
彰は今、自分の中に生まれた鬼と、戦っているのだ。
自分を撃ち殺さなかったのは、彰が鬼と格闘しているからだ――。

だが、それは――正しいのだろうか?

少しして――ゆらりと立ちあがった彰。
しかし未だに俯いたままの彼を見つめながら、初音は呆然と、胸元で未だ光り続けるそれを握り締める。
光り続けるのは、自分に、マナ達に、そして彰自身に、災厄が訪れることを意味している。
これから、まだ、どんな事が起こるというのだろう?
握り締めた銃、滲む手のひらの汗を拭うことも出来ず、だらだらと流れる汗。
銃口は彰に向けられたままだ。この距離なら、自分でも外さないだろう。
さあ、さっきはわたしは撃てなかったのだ。今度こそ撃たないと、本当の偽善者になってしまう。
一番苦しいのは、きっと彰お兄ちゃんなのだ。さあ、初音。彼の脳天に鉛弾をご馳走してあげなさい。

けれど、――まだ、引き金が引けない。
どうして? 初音は考えながらごくりと唾を呑んだ。
そして初音は、漸くゆらりと顔をあげた彰の、その表情を見て、――震えた。

――僕は、変わったのだと思う。
心底に、そう思う。
この島に来る前の自分と、島で戦ってきた自分。
これほどに自分の意思で何かをやろうとした事など、今までの自分の人生ではなかったのだから。
施設を破壊し、人を何人も殺し。
それを、他人の為にやってきた。きっと、自分のことなど一度も顧みずに。

今、自分の中で暴れる獣。そんなものは、正直、大した変化ではなかった。
この島に来て、自分が変わっていくと実感している時に比べれば。

ふと思う。たぶん僕がはじめて愛した人間は、自分自身だった。
そして、きっと、この島に来て、彼女と出会うその瞬間まで、僕は僕自身しか愛してこなかったのだと思う。
本当に美咲さんのことが好きだったのなら、その気持ちを即座に彼女にぶつければ良かったのだし、
あの雨の降る彼女との出会いの日、あの耳鳴りのする中で、すぐにでも抱きしめてしまえば良かったのだ。
なのにそうせず(ああ、良いなあ)という、そんな憧れだけを抱いて暮らしてきたのは、
自分自身が結局、何よりも可愛かったからなのだろう。
拒絶されることを恐れて、自分の弱い心が傷つくのを恐れて、僕は逃げ回っていた。

或いは、他人の事も好きだったのかもしれないとも思う。
自分の脆い心に優しく接してくれようとしてくれた友人たちのことが、好きだったのかもしれない。
はるか、冬弥、由綺、そして、美咲さん。
けれど、それも違うと判る。判ってしまう。
僕は、彼らのことをきっと愛していなかった。
彼らに愛されていた実感はあるのに、どうして彼らを愛せなかったのだろう。
答えは見つかっている。きっと、僕は、誰よりも誰よりも、弱い人間だったのだ。
愛さなくても、愛されてさえいれば、人は――幸せなのだから。

彼らの笑顔の中にいる間、自分の気持ちが安らぐような感触を得たのは、そこが自分にとって、居心地の良い場所だったからだ。
結局、自分の事しか考えず、生きてきたんだ。

きっと、その彼らがここにいて、今の自分の愚痴を聞いていたなら、
優しく、或いは厳しくそれを否定してくれるだろう。
冬弥はきっと言うだろう、人を愛せない人間なんていない、と。
「美咲さんへのお前の気持ちが紛い物だとは思えない、単にお前が意気地なしなだけさ」
そして、はるかも、美咲さんも、由綺も、きっと同じような事を云うのだろう。

判ってる、僕もそれは、今では判っているんだよ。
愛せないと思い込んでいただけで、僕は、きっと皆の事が大好きだったんだ。
ほら、僕は今、こんなに他人のことが愛しい。
そんな実感を初めて得たのが、皆をなくしてからなんだから――僕は、なんて愚か者だったんだろう。
ああ、支離滅裂な話になっている。僕は何を言っているんだろうか。
愛していなかったのか、愛していたのか、どっちなんだろう。
まあ、どちらでも良い。

それにしても、この島に来て――自分が死ぬかもしれない、そんな状況に立たされて、
何故、その時になって初めて、他人のことを心底で守ろう、そういう感情を持ったのだろうか?
それが不思議でならない。

あの時、茂みがざわめく音を聞かなかったならば。初音を見つけなかったならば。
きっと、僕はもっと簡単に死ねていただろうし、こんな気持ちになることもなかった。
他人への嫉妬、そんな感情も一度も覚えることもなく、僕は死んでいったのだろう。
他人を愛するという気持ちが、良くわからないままに、僕は、死んでいったのだと思う。


きっと、その方が幸せだったと思う。
今では、僕はすてきな愛を心から憎むような、そんな道化だ。
けれど、まだ浅い。
ああ、落ちていきたい。この、奈落のような狂気の底に。
未だ僕は落ちきれていない。愛する人も、裏切り者の友人も、きっと殺しきれなかったのだから。


――彰が、茫洋とした目つきで初音の横を通りすぎる。
それを止める術はいくらでもあるのに、何故、身体が動かない。
そして、初音は。
彰の――涙を拭おうともしないその表情を見て、
初音は、自分が何処か間違っていたのかもしれないと、初めて気付かされた。

ひょっとしたら、自分は――大きな勘違いをしていたのではないだろうか?

そう、感じていたのだ。すべて。
あの茫洋とした表情も、あの狂ったような眼差しも、
自分を守るために、人を殺すような狂気も、夢中になって、物事を進めるところも。

――すべて、自分が血を分け与える以前から、彰が持っていたものではないか。

彰、お兄ちゃん。
呼ぼうとしても、声すら出ない。振り返る事すら出来ない。
割れて壊れた窓を無理やりに抉じ開け、そこから彰が外に出るのを、音で感じるしかなかった。
がしゃがしゃと、粉々に弾けている窓ガラスを踏みつけた音がした。

たん、と音を立て、家の外に飛び出したのも判った。
そして、ゆっくりとした歩調で歩き始めるのも判った。
ああ。動かない。動けない。
そうか、そうだったんだ。

鬼って言うのは――結局。

身体が感覚を取り戻す。殆ど同時にマナと葉子も息を吐く。
「初音ちゃんっ! 彰さんがっ」
判ってる、判ったんだ。
止めなければ、きっと、すべてが終わってしまう。

何故なら、鬼なんてものは、少なくとも彰の中には――

「はじめからいなかった」んだから。

自分が与えた血は、きっかけに過ぎなかった。
彰が持っていた、二重人格とまでは云わないまでも、少なからず人間すべてが持っている、
そんな――二重性を、ただ際立たせただけなのだ。

すべての事象に説明がつくわけではない。
自分の推論は正しくなく、本当に彰の心には、鬼が巣食っているのかもしれない。
だが、彰のそれにおいて――
少なくとも、あの時の次郎衛門のように、劇的な変化は起こらなかったと、そう考えるのが自然だと思うのだ。
耕一をねじ伏せた力は、確かに鬼の力だったのかもしれない。
だがそれは、自分の与えた血が、彼の身体を少し、強化した結果の筈、なのだ。

そうでなければ――鬼の力が彰の身体に宿っていたのだとすれば、結界の力を無視する事など、出来なかったのだから。

言い換えれば、人は誰しもが「鬼」を持っている。
それは、自分たちの事を指す意味での「鬼」ではない。
言うなれば、人が誰でも持ちうる狂気――。
その二重性を、便宜的に「鬼」と呼ぼう。
犯したい。殺したい。壊したい。そんな衝動を、人は誰でも持っているのだ。

彰は、自分が血を与えた事を、少なくとも無意識のうちに知っていただろうと思う。
そして、彼は自分がその血を得たことで、肉体が活性化していることに気付く。
その結果、彰は、錯覚してしまったのだ。

「自分は、人ではなくなった」のだと。

――これほど傷ついてもまだ動ける。それは、自分が獣と化したからではないか。
――化け物でなければ、今まだ生きているのは不思議だと。
――そう、そうだ。自分は化け物だ。

きっとこんな思考があったに違いない。
そして、彰は自分が人外になったと思い込み――
――もはや化け物ならば、何をしても構わないじゃないか。
血の力で強まった、温厚な彰の裏にあった狂気が、そう促したのだ。
きっとそれは、声のように聞こえたかも知れない。
そしてその声は、彰自身の声と、まったく同じものだっただろう。

彰が耕一を殺そうとまでした理由は何故だろうか?
耕一が自分を奪おうとした、と、彰は云った。
だが、少なくとも彰と再会するまでの間に、そんな事実は無かったのだ。
ならば、何故彰は耕一を疑ったのか。それも、きっとその二重性の力だ。

それで上手く説明できるかは判らない。すべてそれの所為にするのは強引かもしれない。
だが、「狂気に落ちていきたい」と願う彰の心は、自分の記憶を改竄してまで、
「大切なものを奪われた」という印象を自らに圧したのだと、そう考えれば。

そう。彰は、きっと最初から――狂気に落ちたがっていたのだ。
温厚な彰も、狂暴な彰も、どちらも同じ彰。
温厚な彰が表に出ている、というだけだ。
ココロは一つ。一つの中に、二つが同居している。――それは、どんな人間も、同じだ。
そして、彰自身のココロは――狂暴な彰になりたがっていたのだろう。
それが、鬼の血を得たことで加速された。急速に、彰は落ちていく。

同時に、狂暴になりたくないという意思もあるに違いない。今、自分を撃ち殺せなかったことからも判る。
だが、狂気に落ちていくことをとめるのは、多分無理だと――彰も、判っているだろう。

ならば、彰が次に何をするか。

歯を食いしばり、初音は駆け出した。
「初音ちゃんっ!」
それに続くように、二人も駆け出す。
間に合って欲しい――!
何処に行くのだろう――まるで見当がつかない。
ともかく、三人は走り出した。


――市街地をいつのまにか抜けて、僕はいつしか、街の東の端にあった、高い金網の前に至っていた。
がしゃり、と金網を掴み、その遠くに見える景色を見た。
指に入る力が、次第に強まっていく。
がちゃがちゃ、と音を立て――僕は、金網を揺り動かした。
まるで、わがままな子供がねだるように。

どれだけの時間、僕はそこで、ぼおとしていたのだろう。
金網越しの風景は、まるで変化する事もない。
あまりに変わらない風景は、時間の流れを忘れているかのようで。
ただ、目に見えない風だけが、時間の流れが止まっていない事を告げていた。

初音達の声が、街の遠くで聞こえる。きっと、見当違いの方向を探しているのだろう。
彼女らには、僕が何処へ向かうかなど判るまい。

初音ちゃん。
本当に、愛していたんだ。愛していたんだから――。
僕が狂っていたとしても、きっと、それだけは変わらない。
今から僕は、本当の奈落に落ちていく。

僕がここにいる理由はただ一つ。
こちら側から、きっと――彼は来る。
風景が、多少――揺れた。風も、何かの存在に気付いたかのように、
ココロの底から声が聞こえる。僕とまったく同じ声をした、誰かの声が。
――殺してしまおう。すべて、すべて。目の前にいる、すべての障害を。
その声を、僕は無視した。言われなくても判っている事だから。
そして、網膜の裏に映る視界を観て、僕は――薄く、笑った。
やっと僕は、狂気に落ちることが出来そうだ。

――その金網の奥、青い空も青い海も永遠に見渡せるような、美しい、美しい場所。
そこに広がっていた森から、僕が殺した筈だった、柏木耕一が――現れたからだ。


【七瀬彰 柏木耕一と対峙。武器 彰…ベレッタ 耕一…中華キャノン・ナイフ・ニードルガン
 柏木初音 観月マナ・鹿沼葉子と共に彰の元へ走るが――】

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