斜陽 ── なんだか、ショックを受けてるみたいだけど…… ──
「月代ーっ! 何があったんだ!? 少年ーっ!!」
叫びながら走る蝉丸。
蝉丸が学校に向けて歩き出してから間もなく聞こえてきた、あの声。
己の耳に届くはずのない、あの悲痛な声。
(何故聞こえてきた? いや、何があったというんだ!? 月代、月代ッッッ!! )
蝉丸が元来た道を走り出すのに、時間はかからなかった。
消防団の詰め所は目指さず、声の聞こえた方向、つまり北西に向けて進路を取った。
市街地の外れと、その南に広がる森林の狭間を蝉丸は走った。
かつての戦場でも、これほどの全力疾走はなかったであろう必死さで駆ける蝉丸。
(月代、月代、月代っ)
未だはっきりとした形を持たぬ焦燥感に襲われながら、蝉丸は声が聞こえたと思える地点にたどり着いた。
「月代っ、何があったっ! 何処にいるんだ二人ともッ!!」
叫べども、返事は返らない。
「まさか、二人とも、放送を聞きつけた奴に殺されてしまったのでは……?」
何か手がかりはないものかと、蝉丸は速度を緩めて辺りを見て回る。
(俺は……いい気になっていたんじゃないのか? 年下の者達に囲まれて、一団の中心人物気取りで。仕舞いにはあんな、殺人者を挑発するような言葉まで発して……。その結果で月代と、少年の命を失ったのだとしたら……)
「俺は何という愚者なのだ!!」
叫び、立ちつくす蝉丸。
しかし、蝉丸はそのままでいることを良しとしなかった。
何とか己の納得がいく理屈を組み立てる。
(いや待て、蝉丸。そう決めつけるな。落ち着くんだ。まだ、希望はある。襲撃者の危険にさらされた二人が、息を殺してその脅威をやり過ごしている可能性だって……)
「……だとしたら、落ち着かなければならないのは俺の方なのか?」
可能な限り周囲に気を配りつつ、小声で二人の名を呼びながら、蝉丸は再び周囲を捜索しはじめた。
「もっと、目立つところに置くべきだったかな?」
物陰に隠れたまま少年は一人ごちた。
先程まで割と無防備だった蝉丸を見るにつけ、何度襲いかかろうという誘惑に駆られたことだろう。
しかし、気付かれずに襲いかかるには少々距離があったし、決定的瞬間を待った方が成功率は高まるだろう。
「狩りのチャンスは一度きり……。慎重にならざるを得ないね」
自らを狩人になぞらえる少年が、既に別のハンターに狙われている皮肉。
神の視点を持たざる少年がその事実を知らなくとも、それは仕方のないことであった。
「ん。やっと餌に食いつきそうだ」
蝉丸は今や、仮面の破片が視界に入る位置に立っていた。
間もなくそれに駆け寄り、次に倒れている月代を発見するだろう。
「さて、そろそろ決めなくては……」
「これは、月代の!?」
視界に仮面を見つけた蝉丸。
その動揺は大きかったが、しかし、本人を見つけたわけではない。
蝉丸は改めて周囲に視線を投げた。
結果、うつ伏せに倒れ込んだ月代を見つけるに至り、蝉丸は慌てて駆け寄った。
「しっかりするんだ、月代!」
そう言って月代を抱き起こし、その体を自分の方に向け直した。
「む!!」
月代の顔面は綺麗なものだった。しかし、額からは血が流れ出している。
「む!?」
地面に目をやれば、相当量の血が流れ出した形跡がありありと分かる。
「しっかりするんだ、月代。まだ何も終わっていない。全て、これから始まるんだ。これからはじめるんだ。お前と、みんなとで!!」
まだ暖かい月代の体を揺すって叫ぶ。
しかし、月代が返事を返すはずはなかった。彼女は即死だったのだから。
仮面さえなければ、死に際の言葉一つ残さずに死に至るはずだった。
「ぐおおおぉぉぉーっ!!」
それでも蝉丸は、月代の体を揺することをやめなかった。
「月代、月代、月代っ!!」
「俺と結婚するのだと、言っていただろう!! さあ、目を開けるんだ月代! 開けてくれ、月代……」
次第に温度を失っていく月代の体をかき抱いて、蝉丸は泣いた。
「あれは嘘だったというのか!? 違うだろ、月代……」
夏にしては早い夕暮れの中、月代を抱いたまま蝉丸の慟哭が辺りに響きわたる。
しかし、その首筋には白い紙飛行機が迫っていた。
「う、ぐぅ!!」
身に迫る危機を軍人ならではの感覚で察知し、素早く身をかわそうとした蝉丸だったが、辛うじて首への直撃を免れたのみだ。
儀典から切り取られたページで作られた紙飛行機は、驚くべき早さで飛来し、その鋭さを十分に発揮して蝉丸の背に突き刺さった。
完全に月代に気を取られており、かつ仙命樹の効果が弱まっている中ではそれさえも奇跡的な回避動作だった。
蝉丸は、同時に間近かから聞こえてきた駆け足の音に振り返った。
「!?」
蝉丸が振り返るとそこには、今にも己に斬りかからんとする少年の姿があった。
(どういうことだ!?)
疑問はともかく、武器をかざしてそれを防ごうとする。
しかし、武器をかざそうにも両手はふさがっていた。
(ならば!)
蝉丸は自ら、少年に肩を向けて突っ込んだ。
少年の儀典が蝉丸の右肩に深く切りつけられた。
だが、骨がそれ以上の進攻を止めたか、タックルで少年が弾かれるのが早かったか、蝉丸の腕を切り落とすには至らなかった。
激痛に耐えながら、蝉丸は月代を抱く手を離さなかった。
そのままに少年と距離を取る。
少年は何事もなかったように立ち上がった。
「何故だ。何故なんだ、少年……」 異常なほど低い声で蝉丸。
対する少年は屈託のない笑顔で言い放った。
「蝉丸さん。なんだか、ショックを受けてるみたいだけど……」
「貴様ッ!!」
ギリギリの線で耐えていた蝉丸の、堪忍袋の緒が音を立てて切れた。
少年の顔に張り付いた微笑は
(やれやれ。蝉丸さんの能力は十分に評価した上でしかけたつもりだったけど、それでも仕損じるとはね。しかも士気は十分ときている。でも、今の蝉丸さんは冷静さを欠いているはずだ。それにあれじゃ、右手は使いものにならないはず。彼の利き腕は右だったようだけど、両利きの可能性はあるかな? 手負いの獣を前にして、続けるべきか、続けざるべきか。……狩人としては判断に迷うところだね?)
暮れ始めた陽の光のもと、往人と芹香は走っていた。
急遽、方向を変えて走り出した蝉丸を追って。
フランクも走っていた。
誰にも気が付かれぬよう、市街地の南に広がる森林を縫うようにして。
郁未もまた、走っていた。
(放送がされた場所は本当に近くみたい。そこにまだ少年がいるのだとしたら。
私が止めなくてはいけない。私が、私こそが……)
『なんだか、ショックを受けてるみたいだけど……』
すぐ近くから聞こえてきた、懐かしい声、懐かしい台詞に、郁未の俊足が僅かに速度を落とす。
あまりの奇行にあきれる私に、しれっと言ってのけた少年。悪びれたところの全くない、無邪気ともいえるあの笑顔が蘇る。
あの脱腸ウサギのぬいぐるみ。寝しなに語られた突拍子もない昔話。私の無理な注文に応えて作ってくれたひどく不格好な食卓……。それから、それから……。
非常識な隔離施設の中で、全く不条理な思考回路を持つ少年。
けれど、その行動にはどこか愛嬌と暖かさがあって……。
FARGOでの懐かしい思い出に郁未の心が揺れる。
……けれども、と郁未は思う。
(さっき聞こえてきた女の子の悲しい声。そして今さっき聞こえた、男の人の怒声……。今、彼の手で起こされたショッキングな出来事って言うのは……)
人の死、なのだろうと郁未は悟った。
少年と別れて、どれだけの時が経ったのかは正直分からないけれど、それほど多くの時間を浪費したつもりはなかった。
しかしその間にもう、少年は一人の人間をその手に掛けてしまったのだろう。
『私が助けてあげる』
少年に向けた約束の言葉が頭の中で空回りしていく。
発作はあれ以来まだない。今、少年の前に出ても、自我を失うことはなさそうだった。
(私が彼を助けなくてはいけない。彼を止めるのは私でなくてはならない。だって、約束したでしょう……?)
『だから、あなたを助けるわ。それが出来ないのなら、私があなたを殺してあげる』
(まだ感傷に浸れる心が残っている。約束を果たそうと動くことで心が痛む。こんな痛みが完全になくなってしまえば、躊躇なく行動が出来るのに……。こんな痛み、早くなくなってしまえばいい……)
しかしその時こそ、郁未が神奈の完全なる影響下に収まるという瞬間でもあった。
郁未は駆けた。
惨劇の舞台へ。
郁未は駆けた。
銀髪の少年の元へ。
郁未の目的地は、もう目の前だった。
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