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やわらかな傷痕。


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風が少しだけ揺れた。それがその二人の、二度目の対峙の始まりとなる。
草の踏み潰れる音までが耳に届く。それ程に、何も聞こえない。何も。
石が転がる音もする。風が頬を切り裂くかのように鋭いだけで、後は何も聞こえない。

――そこで待っていた七瀬彰を見ても、柏木耕一はまるで驚くことなく、そこへ向かって歩き出す。
なんとなく待っていてくれるだろう、と思っていた理由があったからだ。
10メートル、9メートル――……。そして、手が届くような距離に至る。

耕一は、がしゃり、と音を立てて金網を掴む。目の前の彰がそうしているように。
その彰は、耕一の顔を見ると少し気まずそうな顔をして――だが、すぐに微笑った。
だが、耕一は笑い返さなかった。それ程の余裕は無かった。

手が届くような距離にいるのに、それでも届かない。
金網越しに、二人は対峙する。
だが、それはけして自分と彰の立場の象徴ではない。
自分と彰との間には、ただ、蒼い大気と、二歩ばかりの距離があるだけなのだ。
けして届かない、どうしようもない高い壁がある訳ではないのだから。

「生きていたんだな」
彰は、その沈黙を破るかのように――金網の向こうで笑った。
「ああ」
耕一は笑い返す事こそ出来なかったが、穏やかな口調で、そう返した。
「誤解で殺されるのなんて、まっぴらだからな」
そして、今度は笑った。
それを見ると――金網の向こうで、彰は多少なり怪訝そうな顔をした。
「僕を殺しに来たくせに、何故笑う」
そして、がちゃり、と手に持っていた拳銃を耕一の脳天に当てる。

「お前は何も判っていない」
そう、彰は呟いた。

「――僕は、引こうと思えば、すぐにこの引き金を引けるんだ」

少し不愉快そうに、彰は耕一を睨む。人差し指は引き金にかかったまま、だが、凍ったかのように動かない。
「お前も何も判ってない」
まるで動揺する様子を見せず、耕一は――また、笑った。
「何がおかしい」
「なあ、彰? わざわざここで俺を待っていてくれた理由は何だ?」
「――お前を、ここで殺す為だよ」
歯軋りが聞こえる程、彰は不愉快な表情をし、力任せにその銃口を、耕一の額に抉るように圧し付ける。
銃口の長さ、わずか十数センチの分しか与えられていない命の猶予にも関わらず、
耕一は、その笑みを崩さずに――云った。

「銃を下ろせよ、彰」

初めて、びくりと彰は震えた。果たしてそれが畏怖による震えだったのか、
それともまったく別の種類の、ある予感から来たものだったのか。
しかし、臆した訳ではない。彰はそれでも銃を下ろそうとしなかったし、その震えも、僅か数瞬で止まっていた。

「下ろせ」

もう一度、耕一は云った。その笑顔を崩さずに云う様子は、余裕があるというよりは、狂気の沙汰にしか見えない。
それでも、彰は銃口を下ろさない。不愉快そうな表情を隠さず、吐き捨てるように言う。
「お前を殺さなくちゃさ、僕は駄目になるんだよ」
小さく息を吐いて、耕一はもう一度云った。――今度は、笑わなかった。

「下ろせ」

――何がしかの放送が聞こえてくる。多分、坂神蝉丸の声だった。
だが、そんなものは今の自分達にとって、どれだけの意味がある。
何も聞こえない。聞こえるのは風の音と、木々のざわめきだけだった。

彰は、小さく溜息を吐くと、
「――判っている」
と呟き、その構えた銃を下ろした。
そう、彰だって判っていた。何故、自分がここでわざわざ半死人の耕一を待っていたか。
激昂に任せて引き金を引くなど、そんなつもりは更々無かったし、
あまりに超然とした様子の耕一が、多少なり不愉快に感じただけだった。
銃を下ろした自分を見て耕一が少し笑うのも不愉快だったが、それは我慢した。

金網越しに、二人は改めて対峙する。


何故、僕はここに来たのだろうか。
ただ呆然と、耕一が倒れている筈だった方向へ向かった。
町の端、人もいない、あるのは風と森と、この金網だけ。
初音達がこちらに来る気配は無かった。きっと見当違いの方向を捜しているだろう。
或いは、初音は”あそこ”に向かっているのかもしれない。ならば、僕は事を終えたら、すぐにそこへ向かおう。
ともかく――僕がここに来た理由は、一つだけだった。

包帯をぐるぐる巻きにした耕一は見ていて痛々しい程だった。今も殆ど左腕は動く様子が無かった。
右手に鞄を持っている、先は持っていなかった筈の鞄を。あの中に武器が入っているのだろうか?

しかし、今の耕一にとってそのような要素は――大した問題ではないように思えた。

耕一の目は、先程、自分に打ちのめされた時のものとは、まるで違った。
――決意と、勇気に充ち満ちた、強い目だったから、僕は――。

ここに来た理由は、一つの動機があったからだった。
内側から声が聞こえてくる。その声がずっと僕に語り掛けた、ひどく嫌な言葉。
その言葉がひどく嫌に聞こえるのは、その言葉が、耐えられない程の誘惑が秘められている、甘美な誘いだったからだった。

落ちていくにはそう、殺せば良い。大切なものを一つ、壊せば良い。

結局僕が殺しきれなかった耕一。
あの時、どうして殺しきれなかったか、その理由は判っていた。

とにかく――今僕は、耕一を殺しきれば良いだけの筈だった。
今度こそ、その”理由”をかなぐり捨てて、僕はあいつを殺す。
彼を殺す事が出来たなら、今度こそ、僕は本当に落下していけるのだろう。

しかし。
先ほど引き金を引けば、それで、すべてが終わりになっていた筈だ。
満身創痍の耕一に、弾丸をかわす術も、それ以上の傷に耐えられる術もないこと等、判っていたのに。
そうだ、殺すためにここに来たのに、何故僕はさっき殺さなかったのだろうか。
その理由も判っていた。あそこで引き金を引いて耕一を殺しても、僕が落ちきれる事などなかった。
それでは、僕はすべてをなくした事にはならないからだった。


「――で、耕一。お前はここに何しに来たんだよ?
 僕にさっきぼろぼろにやられた事も忘れて、性懲りも無く、殺されに来たのかよ」
挑発するように、彰は言った。微動だにせず見詰め合う時間に、多少なりの窮屈を感じたからだった。
「その鞄の中に武器でも入ってるんだろうけど、お前が鞄に手を伸ばした瞬間に、僕はこの拳銃でお前を撃つ」

だが、そんな言葉を聞いても、耕一は肩を竦めて笑うばかりだった。
「そんなつもりはないよ。――俺は、お前を止めに来たんだから」

止める? 彰はその言葉を聞いて、思わず吹き出していた。

「お前、自分の状態見て云ってるのか? その傷、誰にやられたんだよ。
 ――やったのは僕だろうが。そんな寝言を言う暇があったら」
がちゃり、と、再び彰は拳銃を耕一に向けた。
「僕を殺せよ。僕を止めるには、殺すしかないぜ。その前に僕がお前を殺してやるけどな」

良く判らないんだよ、と耕一が呟く声を聞いて、彰は首を傾げる。
「何故、俺を殺そうとした」
「――お前が、泥棒猫だからだよ。人の大事な初音ちゃんを奪ったんだからな」
吐き捨てるように彰は云う。だが、その顔は不愉快げというよりは――何処か、迷いがあるように見えた。

「それは誤解だ、俺はそんな事をしていない」
眉を潜めて、耕一は云った。何を言っているのだ、とでも言いたげに。
「初音ちゃんを守るのは、お前の仕事だろが」
――彰の表情が、どうしようもなく揺れたのを、きっと耕一も見逃さなかっただろう。
そう言って、耕一は笑っていた。
「思ったより理性的で良かった。拳銃も引いてくれたしな。
 俺が初音ちゃんを奪おうとするわけがない。信じろ、俺は人のものを奪おうなんてけしてやらない」
耕一は――説得するように、そう言った。

それが、彰には不可解でならなかった。
彼は。耕一は――勘違いをしていた。
彰は心底に耕一を殺す為に、引いては自分が落ちていくためにここにいるというのに、
耕一はきっと、彰が自分に謝るために、ここに来ていたのだと――そう考えているのだ。
つまり、耕一は優しすぎたのだろう。甘かったのだろう。


きっと耕一はこう考えているのだろう。
まだ彰は正気の部分にいる。先程自分を殺そうとしたのだって、一種の気の迷いのようなものだ。
結局自分を殺しきれなかったのがその証拠だ。彰は戻ってこれる。

そう、多分僕はまだ、ぎりぎり戻る事が出来るのだと思う。
耕一は僕を許しているし、きっと初音達も許してくれるだろう。
そして全員で力を合わせて大団円を迎える事も出来るのだろう。
しかしそれは、僕の精神を無視した場合の話だ。
僕の心にとってみれば遅すぎた。僕の心には傷痕が増えすぎた。

大切な友達を失い、好きだった人を失い、そして、数え切れないほどの多くのものを失った。
そんな中で、落ちていきたいと願うようになっていた。
いつからだったのだろう。初音の事を抱きしめている間は、自分が死んだとしても、彼女を守りたいと思っていた。
その、愛するものが自分に銃口を向けた瞬間。彼女が、僕に狂っているんだよ、と言った瞬間。
その瞬間に、きっと切り替わっていたのだろう。

いつも、落ちていきたいと思って生きてきた事は否定しない。
日々恙無く暮らしていながら、いつも、堕落していけたら。そう思って生きてきたのだから。
初音の――愛する人の、最後の裏切りに遭った瞬間が、その機会だった。

あの瞬間、僕はきっと、反転していたのだ。

耕一が笑っている理由は、彼がすべてを赦そうとしている事を表しているのだろう。
理不尽な暴力で傷つけた事も、先程自分が彼に拳銃を向けた事も、今彼に拳銃を向けている事も。
僕の目が、望外に理性的に見えた事も関係しているのだろう。
初音の名前を出した瞬間に、確かに僕の目の色は落ち着いていただろう。
僕が、自分のした事を悔いて、そして、また一緒に戦って行こうと、そういう風に考えているように見えたのだろう。
だが、それは――まるで別の意味だという事に、耕一は気付いていない。

「さっき、俺がここに何しに来たか、と言ったな。
 お前を止めに来た。そして、――お前は、止まっただろう? 拳銃を下ろしてくれ。
 ――そして、俺は、帰ってきたんだよ、護らなくちゃいけない人たちのところに。
 俺はもう――迷わない。必ず、皆で帰るんだ。お前も一緒にだ」

「さあ、初音ちゃんのところに帰ろう」

その言葉を聞いて、僕は思い付いた。僕がすべてを喪失できる方法を。
耕一は、きっとこの言葉だけは、赦せないだろう。
「もう無理だよ、耕一」
僕は、拳銃を下ろした。だがそれは、けして、降伏ではない。
一瞬呆然とした耕一の顔を見つめて、僕は言ってやった。

はじめから――こう言えば、自分と耕一の殺し合いは始まり、そして、すべての喪失も約束されたのだ。

「だって僕はもう――初音ちゃんを殺してしまったんだから」

耕一の表情が急変するのを見て、やっと僕は笑う事が出来た。
これでやっと心置きなく僕は耕一を殺せるし、耕一は――僕を殺せる。
「――彰、冗談だろ」
絶望を浮かべ、しかし薄ら笑いを浮かべて、冗談だと思い込みたい、そんな表情。
「冗談なんて言うものか。――僕は、もう戻れないし、戻らないんだよ。愛するものを殺してしまったんだ」


――僕の心には、小さな小さな傷痕がたくさんあった。痛みも感じない、苦痛も感じない、けれど蓄積されていく傷痕。
そして、それは誰の心にもある傷痕。耕一にも、初音ちゃんにも、誰にでもある傷痕。
それは僕の場合、きっと人よりも目立たない、小さなものだった。そして、きっと誰よりも深い深い傷痕だった。
僕は、呆然と立ち尽くす耕一を尻目に、すぐ横にあった向こう側へ出る扉に手を掛けた。
僕と耕一を隔てていた脆弱な金網は、そして用を成さなくなった。
そして、直接――そこに、対峙した。

「僕が憎いだろ、耕一。――さあ、殺し合いを始めようぜ」

その瞬間、僕の短い生涯で最後の、やわらかな傷痕が一つ、音を立てて僕の心に刻まれたに違いない。


【柏木耕一 七瀬彰 ――――――戦闘開始】

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