「まだ癒えぬ傷痕。(Summer.)」
「顔を上げろよ。その脳天撃ち抜いて、お前の事も終わりにしてやるから」
そして、その瞬間に僕は鬼畜に落ちるのだろう。僕も終わっていくのだ。
或いは、僕がこいつに殺されるか。どちらにしろ、地獄に行くという意味では一緒だ。
――七瀬彰が、無言で俯いたままの柏木耕一に拳銃を向けて、
その引き金に人差し指をかけた、その瞬間だった。
「あきら」
ゆっくりと顔を上げて、耕一は彰の名前を呼んだ。
刹那、ぞくりと震えたのは、何故だ。相手が自分を殺す事を厭わないよう、あんな言葉を吐いたのに。
殺される事など既に怖くはない筈なのに、何故これほどに恐ろしい。
二十歩ばかりはある距離なのに、この、今もう脳天に拳銃を突き付けられているかのような威圧感は何だ。
その耕一の頬には、一筋の真っ赤な血が、何処からか流れてきていた。
何処か怪我をしたのだろうか。いや、そうではなかった。
それが真っ赤な色をした――涙だと気付くのに、それ程の時間は要さなかった。
――鬼神。それは、とても人の姿には見えなかった。
今の僕の肉体と同じで、いや、自分とは比ぶるまでもなく。
人とは、違うものなのか――?
真っ赤な涙を流しながら自分を見るその目は、怒りというよりはむしろ、悲しみに満ちていた。
護れなかった悲しみ。大切な人をまた一人失った、悲しみ。自分の無力感。
それがきっと、あのような表情にさせているのだろう。
――そうではないのか?
耕一の視線の先にあるのは、もう「死んでしまった」初音なのではないか?
「判った」
殆ど聞こえないかのような声で耕一が呟いたのを、彰ははっとして聞く。
「彰、俺がお前を殺してやる」
思わず震える。なんて声だろう。あんなに小さな呟き声なのに、何故これ程に重い。
人の声だとはとても思えない。「あれ」は、人の姿をした――修羅だ。きっと、自分は殺される。
肉片も残らないくらい、ずたずたに引き裂かれて殺される、そんな予感さえする。
それ程の事を自分は言ってしまったのだ。彼にとって、初音はどうしても護らなければならないものだったのだから。
(――望むところだ)
だが一方で、そのどうしようもない恐怖の裏に、不思議な恍惚感を覚えているのも事実だった。
それは死ぬ事への憧れなのか、それとも――戦う事への憧憬、生き残る事への執着なのか。
自分の身体に充足を感じる。貧弱だった自分を思い返す事すら出来ないほど、今の自分の身体は充実していた。
思わず乱れそうになる呼吸を抑えながら、高鳴りそうになる心臓を抑えながら、彰は薄く目を閉じた。
(二度と空を見る事はないだろう。見る事があれば、それはきっと地獄の空だ)
――耕一が鞄から取り出したのは、自分が耕一を刺した、あのナイフだった。
他に武器があるだろうに、何故よりによって最も貧弱な武器を選ぶ?
それを右手に強く握ると、耕一は、あのどうしようもなく胸が透くような声で――こう言った。
「すぐ、終わらせてやる」
その言葉を聞くや否や、彰も肩を竦めて――こう言った。
「始めようぜ」
そして、銃口を耕一に向けた。それが契機となった。
ガァンッ!
足元を狙って彰は引き金を引く。殆ど練習のような射撃だった。
自分の腕力が、この拳銃を扱う程あるかどうか確かめるための射撃。手応えは十分だ。
タンッ!
だが、泥が撥ねる音がしたかと思った瞬間には、耕一は銃弾をかわし、中空を舞っていた。
信じられない事に、耕一は1メートル近く飛んでいる。
その勢いのまま、一瞬にして自分との間合いを詰めると、
手に持ったナイフで彰の頚動脈を狙い、力任せにそれを振り下ろしてくる!
その斬撃を、彰は咄嗟に銃の背で受ける。
キィィィンッ!
片腕だというのに、その逞しい一本の腕だけで耕一は自分を殺しきろうとしている――!
先程とはまるで違う。なんという戦闘力だ――
両腕で銃を持ち構え、彰は懸命にその腕力に耐える。
「――……はぁッ!」
圧倒的な腕力で刃を強引に彰の身体にねじ込もうとするが、
「っ……離れろっ――!」
彰は大声をあげてそれを弾き飛ばした。
――大丈夫だ、負けていない!
耕一は弾き飛ばされて、体勢こそ殆ど崩さなかったが、そこには五歩分の距離が開く。
すぐさま銃口を向け、彰は引き金を躊躇うことなく引く。
「くらえ――!」
今度は殺すつもりで、脳天めがけて!
ガァンッ!
だが、耕一はほんの一瞬しか隙を見せない、反射的に屈み、脳髄を狙った弾丸をやり過ごす!
なんて運動能力だよ、彰は舌を巻く。
そして低い体勢のまま、再び彰に向けて走りかかる!
彰は後ずさりしながら、耕一との間合いをなんとか取る。ナイフが届く位置に入らせては駄目だっ――
ガァンッ! ガァンッ! ガァンッ!
「くっ――……」
彰は走りかかる耕一に容赦なく銃弾を放つが、そのどれもまともに命中しない。
落ちつけ、クールに!
一番面積の広い腹を狙っても、耕一は刹那のサイドステップでそれをやり過ごす!
「このぉ――っ!」
ガァンッ!
その四発目を放った瞬間、ぱしゅ、と音がして、耕一の頬から血が吹き出した。
漸く当たった――だが。
それは耕一の前進をまるで止めない。怯むことなく、耕一は駆ける!
吹き出た血を無造作に手の甲で拭き取る、赤く染まった頬が禍禍しい力を象徴するかのように、それは耕一を彩る!
「くそっ――」
ガァンッ!
ナイフが届く距離まで近づいているのに、まるで当たらない!
自分の運動能力も相当高まっているはずなのに、何故?
そして、どうしようもない速度で動き回る耕一が、その速度のまま自分の横をすり抜けた!
ザシュゥ……――
「うぐっ――」
左腕に走る痛み。すれ違いざまに斬られた!
そして、耕一を刹那見失う。なんて早さだ、と舌を巻く、何処だっ!
(しまったっ)
神経を集中し、気配を感じ取ろうとするが――遅かった。
その太い腕で首根っこを掴まれる。抵抗できない程の圧倒的な腕力で、耕一は自分を持ち上げると、
「終わりだ、彰」
そう言って、そのまま彰の身体を勢い良く大地に圧し伏せた。
軟らかな土に顔面を押し付けられた。下が軟らかな土だったから、それ程のダメージは受けなかったが、
それでも彰は――敗北を感じずにはいられなかった。
この状況は、先程の自分と耕一の、最初の戦いでの状況を、配役を入れ替えて演じているようなものだったから。
――そうして、あっさり勝負は決した。
――これ程までに、力の差があったというのか。拳銃で、ナイフに敗れた。
彰は自嘲気味に笑う。苦しい。喉が圧迫されて、声を出す事も、息をする事もままならない。
真っ赤な頬をした耕一は、その顔を見ても、何も思わないかのように、息を吐くだけだった。
――それは、そうなのだ。
耕一と自分では、今では圧倒的に違う。肉体も、――心も。
自分はここで殺される。耕一の手によって、肉片が残らないほどに。
きっと、その手首だけで、耕一は自分の首をもぎ落とす事さえ出来るのだろう。
首にかかっている圧力が、それを教えてくれている。
ああ、しかし何故だろう、これ程に感慨深いのは?
やっと死ねるのだ、という幸福。
僕は、その時やっと気付いた。
ここに来たのは、耕一を殺すためではなく、耕一に殺してもらうためだったのだと。
狂気に落ちていく、それでも良かった、けれど結局、僕は――弱者だった。
そう、死にたかったのだ。耕一を殺して心が死ぬか、耕一に殺されて、身体も心も死ぬか。
そして、僕はある哀しい事実を、或いは救われる事実を、確信する。
僕はずっと、自分の事しか愛していないと思っていた。
けれど、それが偽りなのだと。他人の為に、きっとすべてを投げ出せる人間だったのだ。
きっと、きっと――はじめから。
耕一を、初音を。この島で出会ったすべての人たちを愛していたから。
愛する人を護るために、僕は自分を捨てても良いとさえ、思っているのだから。
狂った僕の衝動が、きっといつか、愛するものを本当に傷つけてしまうのなら、僕の身など必要が無い。
狂っているのだろう。きっと本当に僕は狂っている。
僕の奥深くに潜んでいた、狂気。すべてを滅茶苦茶に壊したいという、その衝動は――
きっと、自分自身を壊したいという衝動から、始まっていたのだ。
誰よりも自分を愛していると錯覚して、本当は誰よりも――自分が嫌いだったのだ。
「さあ、殺せよ」
喉にかかった力が抜ける。右手にナイフを持ちかえるためだ。
声が出せるようになった僕は、そんな言葉を呟いた。
目がかすむ。耕一の表情すら見えないまま、僕は、ただ、早く死にたいと願っていた。
耕一の身体で見えない空。そこには何がある?
(何もないよ。空の果てには何かがあるなんて、そんなのただの大人が吐いた嘘なんだから)
「ああ、殺してやるよ」
耕一の吐息が、頬にかかるまで近い。
さあ、早くその手に持ったナイフを僕の首元で動かしてくれ。
――――――――――――――――けれど。
「――どうして、殺さない」
言葉が無くなって、どれほどだったろうか。僕は、未だに死んでいない自分の身を顧みて、息を吐く。
「殺せないのかよ、意気地なしめ」
罵倒の言葉を僕は吐く。
「殺せよ! 憎いだろうが、僕が憎いだろうがっ」
「――俺は、お前が死にたがっているのが判ったから」
そんな言葉を呟いた。そうか。――見透かされていたというわけか。
喉元に刃物がある、ほんの僅かでも動いたならば、僕はきっと死んでいく。
なのに、時が止まったかのようにそれは動かない。
「なあ……殺さないで、どうして護りたいものを護れるというんだ? だから護れないんだよ、大切なものを」
耕一は、たぶん、苦々しい顔をした。
「お前は、俺を殺さなかった」
ぽたり、と、頬に雫が零れる。耕一の汗だろうか?
透明な色をしたそれは、ぽたぽたと、耕一の瞳から零れ落ちていた。
「お前は、俺を殺さなかった」
その細められた哀しい目の先には、紛うことなく、自分だけがあった。
それでは先程のあの血の涙は、僕の為に流していたというのか?
「だから、お前が、本当に初音ちゃんを殺したなんて思わない。絶対に思わない」
「……――殺したよ。――この銃で、初音ちゃんを殺した」
「それが嘘だって事くらい、判る」
「俺も殺せないで、一番大事なものを殺せるわけが無い」
僕は否定もせず、耕一の顔を眺めた。意識が朦朧として、その表情は判らないけれど。
「お前は俺を、殺さなかったにせよ、殺そうとした。それは赦さない」
「なら、殺せ」
「殺すなんて死ぬほどつまらない。だから、俺はお前に命令する。絶対に死ぬな。初音ちゃんを護りきれ」
「それか――嘘を吐くな。初音ちゃんに新しい日常を与えると言った、あの言葉を反故にするな」
耕一は立ちあがると、黙ったままの僕の手を取り、無理やりに立たせた。
「帰るぞ、療養所に」
真っ赤に装飾された顔に、先程のような鬼神のような印象はかけらも無い。
なんと優しい男なのだろうと、そう思う。
そして、なんと甘い男なのだと。
「耕一。お願いだから――そんな、酷な事を言うな」
背中を向けた耕一に、僕は持っていた拳銃の先を向けた。
反射的にそれに気付いたのだろう。耕一は振り返るが――
多分、遅かった。その筋肉に護られた腹筋に、僕は弾丸を叩きこんでいた。
「うぁっ――!」
瞬間、腹をうずくめて、耕一は倒れた。
――あそこなら、耕一も死ぬ事はあるまい。防弾装備もしていた筈だから。
だが、防弾装備をしていたと言っても、すぐに立ちあがれるほどの距離からの射撃ではなかった。
「彰っ――」
僕はそれでも無理矢理に立ちあがろうとする耕一を哀しげに見ると、拳銃をその傍らに放った。
もう、必要の無いものだ。
「サヨナラだ、耕一」
そう言い残して、森に入る。耕一が何か呼ぶ声が聞こえるが、――関係無い。
何処へ向かっているのか、と言えば――それは、判らない。
けれど、少なくとも死の淵の方向へ向かっている事だけは判った。
誰の手も借りず、死ぬ事が出来る場所。そこを捜して、僕は歩き出した。
耕一の言葉があまりに嬉しかったのだろうか?
嬉しすぎて、――哀しかった。
もう、あそこに戻る事は出来ない。喩え本当は狂っていなくても、それでも。
生きているのがつらい。
だが、それ以上に――自分の自虐衝動が、初音を、耕一を、傷つけるのが怖かった。
この島に来て生まれた新たな傷痕は、一つ、二つ、心に深く刻まれていく。
この島に着た誰もが、その癒えぬ傷痕を抱きながら生きて、死んでいった。
どうか。ここで出会った優しい人たちよ。僕のように弱い心じゃない、逞しく生きていく人たちよ。
まだ癒えぬ傷痕は、それでもいつかは癒える日がやってくるのだから。
ああ、神様。
もう一度だけ空を見ても良いですか?
【七瀬彰 柏木耕一 戦闘終了。彰は何処かへ歩き出す】