幽夢。


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鹿沼葉子がその放送を聞いて走り出したのは――
放送が聞こえてきた方向とは真逆の、北に広がる深い森の中へ向けて、だった。
初音やマナ、その他の皆には勝手な行動を取ることを謝らなければならないけれど、今はその時間も惜しい。

あの少年の声が、聞こえた。

その声で葉子が連想したのは、当然――友人である天沢郁未の事、だった。
少年の傍に郁未がいるかもしれないという連想は決して突飛ではない。
島に来る前からの知り合いは減って、片手で数えられるくらいまでになっていた。
ならば――郁未があの少年と一緒に行動しているという可能性は、けして低くはないだろう。

逢いたい、逢いたい。郁未に逢いたい。

――それでも、何も疑わずにそこへ向かう事が出来るほど、葉子の判断能力は衰えていなかった。
あの時、再び出会った時の、少年の顔。
きっと彼は既に、狂っている筈なのだ。あの時の嫌な笑顔が、今でも忘れられない。

――人の多い場所は無いかい?

ぞくり、と震える。あの質問の意義は、今となって考えてみれば――皆殺しの為だったのではないか。
ならば、今の放送もまた、その為の布石なのではないだろうか。
葉子は考える。ほぼ確信と共に、ある考えを持つ。
あの少年には――「多少」なり、不可視の力が戻っている、と。
そう、飽く迄「多少」だ。
もし完全に力が戻っているのだとすれば、瞬きをする間にこの島は消し飛んでいるだろう事は想像がつく。

だから、運動能力が常人を遠く超えたものになっているとか、たぶんその程度だろう。
だが、その程度でもこの島の人間を皆殺しに出来るだけの力は――ある。
何故ならば、彼は持っている。自分の命を護った一枚の紙切れ。「偽典」という名の、最強の兵器を。
拳銃も効かない。彼の運動能力にあの兵器は、あまりに危険過ぎる。

郁未は一緒にいるのだろうか? それとも、もう殺されてしまっているのだろうか?
想像はしたくない。だが、殺されている可能性を考えないわけにはいかなかった。
どちらにしろ、葉子はそこに向かわざるを得なかった。
(可能性がある限り、希望を捨てちゃいけないんです)
たとえ、その圧倒的な能力に、無残に殺される事と、なっても。
(諦めたらそこで試合終了ですよ)
バスケがしたいです―― とか、今はそういうくだらない事を考えている場合ではないかな、とも思ったが、
(いえ、違う。大事なのは心の余裕。熱くなり過ぎず冷静になり過ぎず。適度な興奮状態で、ですよ)
そう思って、葉子は少し笑う。考えろ。考えろ、考えろ。

その瞬間、葉子に走る閃き。
それは――
「そうだ」
それが、葉子を声とは反対の方向へ向かわせる理由だった。
息が切れる。身体が重い。だが、止まってなるものか。
正確な場所はわからない。けれど、街よりは北のほうだった筈だ。

そう。――すっかり、忘れていた。
森の中に落ちこんでいる筈の、高槻が持っていた――あの装置の事を。


【鹿沼葉子 持ち物……槍 北の森、高槻の死体のところへ向かう】

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