夢を見るひと。
泣きじゃくるマナを見ながら、自分の頬にも涙が伝っていた事に気付いて、初音は思わず息を吐いた。
本当に良かった。
自分は、大切な人を失わないで済む事が出来たのだ。
だが、その耕一の顔を見て安堵の息を吐く事が出来たのも、ほんの束の間のことだった。
柏木初音の思考を次に襲ったのは、耕一を撃ったのは誰か、という事だった。
初音はすぐにすべてを理解する。そして無意識のうちに唇を噛んで、目を閉じた。
耕一を殺せなかった彰。
それは彰がまだ――すべての人の心に巣食っている狂気、という意味での――鬼に、成り切っていない事を証明していた。
それならば、まだ止めようがあるのかもしれない。
彰は街の外へ出たのだろうか。
そうだとしたら彼は何処へ向かう?
呼吸を乱しながらも、耕一は自分の顔を見て、真剣な顔で云った。
「――彰が、その森に入って、いった。早く追わない、と、手遅れになるかも、しれない」
多分自殺するつもりだ、と付け加えて、耕一は少し呻いて顔を歪める。
「俺は、少し、休んでから行く。どうも、眩暈が、する」
途切れ途切れに言葉を漏らしながら、そのまま倒れ込む。
「耕一さんっ!」
上に乗られたマナは、その耕一の様子に本気でうろたえたが、
「……大丈夫。ちょっと、まだ、血が、出来てない、だけだから」
耕一はそう云って笑う。――無理に微笑んでいるようにしか見えなかったが。
次に、寝転んだまま腕を伸ばし、耕一は初音の頭を撫でた。
「初音ちゃん。……彰を止められるとしたら、君だけだ。初音ちゃん以外には、止められないと思う」
早く行ってあげるんだ。東に行った筈だから――耕一が、もう一度目を細めた、
――その瞬間。
奇妙なほど高い心臓の音が、初音の肉体を支配する。
どくん、どくん、どくん。
高い脈を打ち、初音の顔は一気に何か悪霊に囚われたような、そんな顔になった。
「――初音ちゃん?」
耕一に抱きすくめられていた観月マナが異変に気付く。
怪訝な顔になり、自分の顔を覗き込んでいるのが判る。
身体を起こした耕一も同じような顔をして自分を見る。
「初音ちゃん? どうした? なあ、はつねちゃん――」
それにもまともに反応も出来ないほど、初音の頬は紅潮している。
呆然とした初音の意識が、何かに支配される。
何かの意識が流れ込んでくるような感覚。
新たな記憶が植え付けられていくような感覚。
記憶と思考の渦が、不快な音を立てて初音の身体を支配する。
前にも、何処かでこんな事を経験した記憶がある。
不思議な力が、わたしにゆっくりと、働きかけているのだ。
ああ。
「初音ちゃんっ、どうしたの! ねえ、」
マナが呆然と自失した表情の初音の肩を揺する。
ごめんね、心配かけてごめんね、マナちゃん。
身体を無理矢理に起こし、耕一も立ちあがっていた。
「初音ちゃんっ、どうした、何か具合でも――」
膝を付き呼吸を乱す自分の顔を、耕一も不安そうに覗き込む。
ああ、ごめんね、耕一お兄ちゃん。折角再会できたのに、こんな顔をしててごめんね?
流れ込む意識の正体は、何なのだろう?
鋭く冴え過ぎた、自分の思考なのだろうか?
それとも、まったく別種の力が、自分に働きかけているのか?
――そう、彰お兄ちゃんは、きっとあそこに向かったんだ。
――わたしと最初に出会った場所の、
――対岸。
――東の海神から、西の蒼海へ向けて、彰お兄ちゃんは走り出したのだ。
不思議な確信が、自分の脳髄に刻み込まれる。
西だ。西に彰は向かった筈なのだ。
その思考が何処から生まれたのかなど、わたしには考える術もない。
流れ込んできた意志は、誰のもの?
その根拠のない考えに、不自然なほど自分の意志を依存しようとするのは何故だ?
それは、きっと超直感と呼んで差し支えの無いものだっただろう。
直感以外の何物でもない、彰は東の森に入ったのだろう? 耕一はそう云っているじゃないか。
なのに、その直感の方が、今は信頼できる気さえするのだ。
今は走り出さなければならない、もう一人の大切な人を捜し出すために。
「マナちゃん、耕一お兄ちゃん、――ごめん」
そう云って初音は――西に向けて走り出した。
「初音ちゃん!」
二人の声が聞こえる。二人の声が、聞こえる。
「初音ちゃん! 彰はそっちじゃない、こっちの森に入っていったんだから!」
そんな声も無視して、初音は正反対に駆け出していく。
――彰は、西だ!
七瀬彰は、自分が何処へ向かっているのかも知らぬまま、森の中を呆然と歩き回っていた。
この森はあまりに深く、空を望む事が叶わない。
がさりと草を踏み、土に足がついていることを確かめると、彰は自分が何処に向かっているのか考えていた。
初音との出会いの場所。初音を最初に抱きしめた場所。
島の東の端で、朝陽を望みながら、彼女を護るために戦おうと、最初に決意した場所。
そこに向かっているつもりだった。
考えてみれば今自分は間違いなく島の東側にいる筈だったし、
それならば少し森を抜けて歩けば、目的の場所、東の海に至る事が出来る筈だった。
それなのに、木々の隙間から覗ける森の外には、まるで海は見えない。
もしかしたら、森の中を迂回して、まったく違うところに向かっているのだろうか。
自分がまるで、東の空に向かう事を、拒んでいるかのように思えた。
土を踏みながら、彰は考える。
もう一度だけ、初音に逢いたい。
逢って、言わなければならないことがある。
彰はもう、生きていくつもりはなかったけれど、初音には、生き残って欲しいから。
だから、云いたい言葉がある。
眩暈がするのが判る。
血はそれ程流れていないのに、まるで貧血状態であるかのように、身体が言うことを効かない。
もし歩む事を止めれば、自分は多分二度と歩けないだろう。
生きていくつもりも何も、自分はすぐに死んでしまうのかもしれないな、という気もする。
ともかく、生きていくには僕は駄目になりすぎた。
どうやら森が終わったのだと理解したのは、その先には海が見えたからだ。
真っ青な美しい海と、赤く焼けた空、だった。
今にも沈みかかっていた陽。
――ここは、西の海だった。
初音は市街地を全速力で抜け、西に繋がる森に入る。
ここを一直線に抜けていけば、彰に逢える。流れ込む意識は、きっと正しい。
初音がそれに確信を抱いていたのは、
身体の節々が痛む。この島で初音自身、たくさんの怪我をした。だが、それでも自分は生きている。
自分自身で武器を持ったことなど殆どない。
他人を傷つけた事も殆どなかっただろう。
それなのにこの殺し合いを強要される島で、誰も傷つけることなく、自分もそれほど傷を負うことなく、
自分がここまで生き残って来れたのは、自分を護ってきてくれた人たちのお陰なのだ。
本当にたくさんの人と出会った。
弱い自分を護ってくれた、大切な人達。
そして、彰。
彰との、この島での日々を思う。
茂みの裏で震えるわたしを見つけた彰お兄ちゃんは、にこりと微笑んでくれた。
一人泣いているわたしを、彰お兄ちゃんは抱きしめてくれた。
体調が悪化したわたしを、彰お兄ちゃんは看病してくれた。
殺されそうになりながら、彰お兄ちゃんは戦ってきた。
危険に晒されたわたしを、彰お兄ちゃんは護ってくれた。
そして、彰お兄ちゃんとわたしは肌を重ねた。
そして、彰お兄ちゃんはわたしに優しいキスをくれた。
……耕一は、彰は自殺するかもしれない、と言った。
初音にも、彰の心境の想像はついた。多分、彰はこんな事を考えているのだ。
――狂気に侵された自分が初音と共にいたならば、きっと自分は初音を傷つける。
――傷つけるくらいなら、死んでしまったほうが良い。まだ、自分自身の理性が残っているうちに。
そう、彰は誰よりも優しい人だから。耕一を傷つけ、自分を傷つけようとした事が、どうしようもない罪に思えたのだろう。
それならば、自分がするべき事は一つだ。
傷つけても構わない、と抱きしめてあげれば良いのだ。
傷つけても良いんだよ、と微笑ってあげれば良いのだ。
今までずっと護ってきてもらったのだ。
彰がいなければ、わたしは当の昔に壊れてしまっていただろう。
あの時、初めて出会ったときの彰お兄ちゃんの笑顔で、
そして、今までずっと笑ってきてくれた彰お兄ちゃんの笑顔で、
わたしがどれだけ救われたか、判っているの?
最短距離で森を抜けるつもりだったが、予想以上に道は困難だった。
一つ勾配の急な丘を超えなければならず、それには相当の時間を尽くさなければならなかった。
迂回していこうかとも思ったが、それにも時間がかかると思い、わたしはそこを登っていく。
結局、太陽が傾くような時間まで、そこで時間を使ってしまった。
ともかく、そこを超えると、すぐに森は終わりになった。
広がる海と、傾きかけた、太陽。
――そこには、七瀬彰が一人、立ち尽くしていた。
【七瀬彰 柏木初音 ――――――――――再会。 時間軸は死亡放送三十分前位です】