魂食らい
斜面に、二つの人影があった。
そこは山の中腹。
山頂に近づくにつれて木々の高さが増すという、不自然な植生。
それがこの山の異常性を、雄弁に物語っている。
肩の高さを越える木がちらほらと現れ始めたせいか、小柄なほうの人影が狭まる視界に不快げな表情を作った。
「…うぐぅ」
この小さな人物は、月宮あゆ。
何かに引き付けられるように、乏しい体力を振り絞って、この山頂を目指している。
大きなほうの人影が、腰に手を当てて一息つく。
「ねえ、あゆちゃん?
本当に、こちらなの?」
比べて大きな人物は、柏木千鶴。
あゆの周辺で起こる怪奇現象を目の当たりにして、いつになく現実的な思考を捨てて、彼女の主張を優先させている。
先ほどの放送で、今後の方針は決定していた。
(施設に残った詠美ちゃんと繭ちゃんを回収して、梓と合流したら小学校に行こう)
放送のあとに聞こえた声が、いまだに殺し合いの続いている事を知らしめていたが、一つの指針として小学校を意識する
人間は、結構いるのではないだろうか。
そう考えての結論である。
…しかし、今は。
「間に合わない」という言葉に、背中を押されている。
何故かは解らないが、千鶴自身も焦りのような胸騒ぎのような、何かを感じている。
あゆに投げかけた言葉は、「問い」ではなく「確認」なのかもしれない。
「うんっ、ここのっ、上、だよっ」
「…そんなに慌てないといけないの?」
登り始めはやたらと元気だったあゆだが、今では肩で息をしていた。
上に危険があるのならば、この状態で辿り付いても得るものはない。
そう考えて、何度か休憩を提案したが、あゆは山を登り始めてからというものの、今まで以上に急いでいるようだった。
「そう、急がないと、駄目、なんだよっ…って、あれっ?」
断言したあゆが、言葉と裏腹に立ち止まる。
「…あら……?」
千鶴も立ち止まって、あたりを見回す。
木々は高さと密度を増す一方だったが、ある一線を境に全く生えていないのだ。
不自然に開けた視界の先には、再び林が見える。
今までの雑木林ではなく、縄と紙を巻きつけた、異常に高い巨木が連なっていた。
「何かしら、これ?」
「うぐぅ?」
よく解らないが、何かある。
そんな場所に到達したと二人は確信しながら、首を捻っていた。
暗い林の中で、一つの人影と、一つの人影-----いや、輝く人-----が距離をおいて見つめあっている。
影は儚げで、輝きは誇らしげに立っていた。
……寒い。
それに、苦しい。
スフィーは酸欠状態の魚のように、ただ口をぱくつかせていた。
ほんの数時間前には、暑ささえ感じられた空気が、今では真冬のように冷え込んでいる。
響くのは、まだ幼さの残る声。
先の放送よりも小さな声なのに、すぐ隣に居るかのように、明瞭だった。
「…何を、恐れる?
お主は、余に会いにきたのであろう?」
親しげな口調。
神奈はあきれたように余裕をちらつかせて、言葉を続ける。
「都合よく、反りの合う人格を探しにきたか?
…よく、考えよ。
今の余も、お主の期待した人格も、余の一部に過ぎぬ」
封じられ、動けぬはずの存在が、雄弁に物語る。
スフィーが何もいわないうちから、彼女は先へ先へと話を進めて行く。
「誰しも、心のかたちは平面ではあらぬ。
複雑な多くの切り口を持った、巨大な多面体ようなものじゃ。
お気に入りの一面だけを説得して、余という存在の全てを掌握できる、とでも思ったか?」
「くっ……」
強力な現在の神奈の意志の前に、スフィーの希望は儚いものであった。
そして神奈にとっては、僭越な支配欲にしか映らない。
…いつの間にか、彼女が近付いていた。
歩を進めることもなく、翼をはためかせることもなく。
ただ事実として-----近付いている。
「もっとも、着眼点は悪くなかったやもしれぬ。
いや、惜しいところであった、かの?
先ほどの外法…あれで、消えたのじゃ。」
無感動に評価を下す神奈。
それに対してスフィーは、悲壮な顔で尋ねる。
「消えたって…どういうこと!?」
「文字通りじゃ。
もはや、お主の期待する神奈は存在せぬ。
今ここにある余が、唯一にして全てなのじゃ」
…寒い…こごえてしまいそう。
どうして彼女は、あたしのそばに来るのだろう?
「…お主がここに来たのは無駄足であったろうが、余は歓迎する。
その甘美な魂の絶望を、差し出すがよい」
そう言って再び、あの氷のような微笑を浮かべる。
目の前に、彼女がいた。
そうだ、この感じは。
もはや冷気などではない。
「そして余の肉として-----」
笑みが、無限に広がっていく。
これは、凍気だ。
顔が、脚が、腕がこわばる。
身体が、精神がこごえる。
「-----余に、従え」
神奈が手を伸ばす。
スフィーは微動だに出来なかった。
寒い。寒い寒い寒い。
…あたしの思考が。
…あたしの思考が、寒さの中で凍てついて……。
夕暮れの空に染みる微かな赤は、まだ予兆に過ぎない。
二つの影は-----いや、一つの影と、一つの輝きは----今まさに、重なろうとしていた。