冷たい頬。(The Night gives Birth Again)


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風が吹いていた。ここ数日のひどい暑さに比べて、今は若干の肌寒さを感じるほどだったが、
それは多分、今わたしの身体を襲っているさむけとは関係がないだろう。
小さな唾を呑みこんで、夕陽を前に立ち尽くす七瀬彰の姿を見つめる。
自分の直感は、果たして正しかったのだ。西の空、赤い空の下で、わたし達は再び逢う事が出来たのだ。

――わたしは今、理解している。自分の今感じている寒気の正体が何であるかという事を。
――その寒気の正体が「それ」であるならば、わたしに出来る事は一つだけだ。


僕は、背後にやってきた何者かの気配に気付いていたが、振り向く事は出来なかった。
それが誰であるかという事が手に取るように判るし、彼女以外には有り得ないとも思っていたからだ。
顔を見たら泣き出してしまいそうだった。自分の事を愛してくれた人。自分が愛した大切な人。
この赤く染まった空の下で、僕は彼女に、柏木初音に送らなければならないものがある。

――ごめんね。ずっと護ってあげると約束したのに、約束、守れないよ。
――せめてと云ったらなんだけど、僕は君に「さいごのことば」を送るから。


僅かの沈黙と躊躇の末に振り向いた七瀬彰は、鼻の頭を掻きながら、
「よく、ここが判ったね」
出来得る限りの微笑を見せて、そう云った。
「うん」
「そういえば、初めて出会った場所にすごく似ているね、ここ」
「うん」
ただ頷くだけの柏木初音もまた、薄く笑みを浮かべている。
それは、笑っているのか泣いているのか判らないような、中途半端なものではあったけれど。

「でも本当は全然違う。あの時は昇っていく朝陽を見ていたけど」
今見ているのは、沈みゆく太陽だ。

「考えてみれば、すごく短い時間だったね」
「うん」
二人の間には、手を伸ばせば届くほどの距離。
高い崖の上、森を背にした初音と、海と赤い空を背にした彰。
「太陽が昇って、沈む。その程度の、短い時間だった」
彰は笑う。
「でも、すごく楽しかったよ」
「僕も、楽しかった」

「――でも、終わりだ」
彰は手を伸ばして、初音の肩に手を置いた。
「これ以上一緒にいる事は出来ない。僕の心はだんだんおかしくなってきているから」
唇を噛む初音の頬に触れる。がたがたと震える身体は、それでも温い。
(これ以上一緒にいたら、君を傷つけてしまうから――)
「こうやって君の傍にいるだけで、君の事を傷つけてしまいそうなんだ」
上手く笑えているだろうか。
「僕は君の盾になりたかった。君の事をずっと護っていきたかったけど、それも無理みたいだから、
 僕はもう死ぬつもりだ。君の事を傷つけて、殺してしまう前に」
彰は遠くの空を指差して云う。先にあるのは赤い太陽、そして、永遠の海と風。
「何となく、僕らがここに集まった理由が判ったよ。ほら、太陽が沈んでいくだろう?」
そして、僕達は日が昇る場所で出会った。

「それと同じように、僕らの邂逅も、これで終わりを迎えるべきなんだ、という事さ」

「さよならだ、初音ちゃん」

云うべき事。
彼女がこれから生きていくために云わなければならない事。

「本当は――言うべきじゃないのかとも思ったんだけどね」
云うんだ。それが僕にとって身を切られるような嘘でも。

「君の事好きだと云っただろ、あれ、嘘だ」
君のその顔を見るのが嫌だった。何を言っているの?――そう云っているような顔が。

「君に新しい日常をあげるとも云っただろ? あれも嘘だ」
君は聡明な子だから、僕の言葉の意味もすぐに理解できているだろう。

「君を利用しただけさ、貧弱な僕がなんとか生き残るためにはね、そうでもしなくちゃいけなかったのさ」
君は聡明な子だから、僕のこの言葉がただの嘘だという事も判ってしまうのだろう。

「大体さ、僕が君みたいな子供を相手にするわけがないじゃないか、そうだろう?」
そして何より、君はすごく優しい人だから。嘘だと判っている言葉でも傷ついてしまうような。

「本当はこんな事云わないでさよならした方が、卑怯者の僕には相応しかったかもしれないね」
自嘲気味に笑えば、きっとそれは嘲笑の笑みと――それ程違わない、虚しい笑いになるだろう。

「最後まで素敵なお兄ちゃんで、だ。考えるだけで笑えてくるよ」
ともかく、だ。

「それでも、まあ、最後だから本当の事を云ってしまおうと思ったんだ、せめて最後くらい正直者に、だ」
初音ちゃん。云いたい言葉があるんだ。誰よりも優しい君に。けれど、けして云ってはいけない言葉。

「まあ、君がそんな事考えるわけがないとは思うけどさ。僕が死んだ後、後追いとかはやめてくれよ」
人は、強くなくちゃ生きていけない。弱い人は、生きていく事も出来ない。

「そういうのって気色悪いんだよね。っていうか、君みたいなのに後追いされても何も嬉しくないんだ」
だけど。

優しくなければ、生きていく価値はないんだよ。

「まあ、そういうわけだからさ。君の事なんて好きでも何でもなかったけど、
 まあ、やっぱ結構な時間一緒にいたわけだから、情も少しはある」
生きて欲しい。生き残って欲しい。

「こんな僕の事なんか忘れろ、そいで、――まあ、生き残ってくれると嬉しいかな。
 僕はきちがいになる前に死ぬ事にするから。君を殺す前に死ぬことにする」
君が生き残れば、それがこのくそったれゲームへの、最大の勝利になるんだ。

さようなら、優しいあなたよ。
さようなら、愛しいあなたよ。

云わねばならぬ事はすべて言った。云ってはならぬことも、僕は云わないで済んだ。
――僕は振り返り、赤く広がる空を見つめた。
あと、五歩。それで僕はこの赤い空と海の間に落ちていく。
小さく息を吐いて、僕が歩き出そうとしたとき。
今までずっと黙り込んでいた初音の、囁くような声が聞こえた。



――いいよ、殺しても。


確かに、そう聞こえた。何を言っているんだい、君は。
振り返り、その表情を見る。俯いた顔をあげて見せた表情には、まるで迷いが見えなかった。
うっすらと浮かべた涙の奥に見えたものは、何の光だ?
「いいよ、殺しても。彰お兄ちゃんは、わたしを殺しても良い」

僕は溜息を吐いて、再び初音の傍に寄り、その大きな瞳を見つめる。
そして初音もまた僕の傍で、まっすぐな目で僕の瞳を見つめた。
「人の話、聞いてなかったのか? 殺したくないんだよ。
 殺したくないから死ぬって云ってるのに、何で殺しても良い、とか云うんだよ」

「馬鹿だよ、彰お兄ちゃん」
初音は、少しだけ笑って云った。
「どっちがつらいと思う? 大切な人を失くして生きていく事と、大切な人に殺される事」
僕は目を細めて、その言葉の真意を確かめるように、一つごくりと唾を呑む。
「何を云ってる……殺されるほうが嫌に決まってるだろ――」
「だから彰お兄ちゃんは馬鹿なんだよ。わたしにとってはね、彰お兄ちゃんを失くす事のほうが余っ程嫌なんだ」

わたしは、呆然とした顔をした彰の顔を見つめて、少しだけ笑った。
「彰お兄ちゃんがいなかったなら、きっとわたしはずっと前に死んでいたよ。
 肉体的な意味じゃない。もし彰お兄ちゃんに逢うのがもう少し遅かったら、わたしの心は死んでいた」
喉が涸れて、上手く声が出ていない。ちゃんとわたしの言葉は通じているだろうか。
「彰お兄ちゃんは、すごく強くて、優しかったから。震えているだけしか出来なかったわたしを、抱きしめてくれた」
彰は俯いて、言葉を吐く。
「抱きしめたのも、好きだといったのも、全部嘘だと、そう云っただろう――」
「――彰お兄ちゃんは、嘘吐くのが下手なんだよ。――それにね、さっきのが嘘じゃなかったとしても」

「わたしはね、彰お兄ちゃんの事が好きだから。――わたしは、彰お兄ちゃんじゃなきゃ駄目なんだよ」

「傷つけても良い。殴っても蹴っても、殺しても良い。でも、わたしの事を本当に気遣うのなら、死なないで欲しい」
丸く目を見開いた彰の身体から、何かが抜けたような気がしたのはわたしの気のせいだろうか?
「死ぬのはね、自己満足だよ。わたしも、耕一お兄ちゃんも、誰もそれじゃ充たされないよ」

「それにね、さっき云ったよね? 太陽が沈むように、わたしたちの生活も終わらせるんだって」
「――ああ」
彰は、思い出したかのように云う。茫然自失とした顔の裏には、理解があった。
今からわたしが何を云うかが、想像がついたのだろう。

「本当に馬鹿だね、彰お兄ちゃん」
こんなの、当たり前の事じゃないか。何を勘違いしてるんだよ、彰お兄ちゃん。

「太陽は何度だって昇る。何度だって朝はやってくるんだよ」
そうさ、夜は何度だって明ける。人が望む限り、永遠に。
「日々はいつか終わる。いつか太陽が昇らなくなる日も来るだろうと思うよ。でもね、終わらせる必要は無いんだよ」
云って、わたしの身体から――力が抜けた。

「だからね、出来る限りわたしと一緒にいて。それで、わたしを殺したくなったなら、」
「殺せば良いから」

わたしは未だ、何処かの風の中にいる。その風はきっと彰にも吹き付けている、悲しい風だ。
わたしの表情も、彰の表情も、その風の中で

「――ばかだよ、初音ちゃん」

次の瞬間だった。
一歩、近づく音がした。その一歩で、わたしと彰の距離は、一層近くなる。
そして彰は本当に悲しそうな顔をすると、

――わたしの首に手をかけた。

「本当に、殺してしまうかもしれないと云っているのに」


【七瀬彰 柏木初音   海の前で会話中。耕一達の到着はまだ後】

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