柔らかな頬。(Farewell, My Lovely)


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苦しい、苦しい、苦しいッ――。
首に指がめり込んでいるという事実を認識するのに多少の時間がかかった。
自分の首に手を充てているのは、誰であろう、七瀬彰だった。
「死ぬってのは、こういう事だぞ」
呟く彰の声を、わたしは呆然とした顔で聞いていた。
「死ぬのは、これよりももっと苦しい」
息が出来ない、力が入らない、右手に握った拳銃を取り落とす。
「肉体はすごく脆い。すぐに壊れてしまうんだ」
目が充血していくのがわかる、脳に血が溜まっていくような感覚、ああ、意識が、あ
「その点――心はね、身体より丈夫に出来るんだよ」
力が数瞬の間の後に、抜けた。

「愛しい人が死んだくらいで壊れるほどね、人の心は弱くないと思うんだ」
――どんな傷痕でも、それはいつかは癒えるもの。

咳き込んで、足りなくなった酸素を脳に送りこむようにわたしは激しく息をした。
死ぬとは、こういう事か。
意識がなくなり、自分が何であったかも忘れてしまうような。
「身体が死ねば心も死ぬんだという事、判ってる?」
――愛しい人の事も忘れてしまうような、そんな苦しみ。
「僕が死ぬ理由は、君を、君の心を――死なせたくないからだという、そういう事が判ってくれた?」

ばかなんだから、初音ちゃんは。
そう云って、彰は本当に悲しそうに――笑って。

「それじゃあ、さよなら、初音ちゃん」

今度こそ彰は振り返って、夕陽の光る空に向けて歩き出した。
離れていく。大切な人が離れていく。――ああ。
そのやけに小さな背中を見ながら、わたしは呼吸を整えると、掠れた声で呟いた。

――ばかだよ、わたしは。

「ばかだもん、わたし」
ぴたり、と彰の足が止まる。
「すごく苦しかったよ。死ぬのがどんな事かって今まで判らなかったけど、今、なんとなく判った」
「そうだろう? 初音ちゃんだって死にたくないだろ。大丈夫、耕一と一緒にいれば死ぬことはないよ」
理解してくれたんだな、そんな風な安堵の溜息が漏れたようだった。
背中を向けたまま、彰はまた海に向けて歩み始める。
しかし、わたしが本当に云いたいのはそんな事ではない。
「だから、お兄ちゃんにも死んで欲しくない」
三度、彰は振り返った。
「お兄ちゃんだけあんな苦しい目にあわなくちゃいけないなんて嫌だ」
「――はつねちゃん」
「お兄ちゃんが死んだらわたしも死ぬよ。すぐに後を追う。同じ苦しみを味わう」
彰の表情が歪むのが判った。どうしようもない苦痛の表情が痛々しくて、
わたしは思わず笑った。判ってくれただろうか?
「彰お兄ちゃん、すごく苦しかったよね。わたしみたいな足手まといを護って、戦ってきて、いっぱい怪我して」

大切なものが死ぬということのつらさが。

そして、わたしの本当の「意志」を聞いたならば、彰もまた、悲しい顔をするだろう。
わたしは、彰お兄ちゃんに――
「わたしは自分の事しか考えない、わがままな人間だから。だから、云うよ」
呟いた言葉は、
「一緒に生き残ろう。二人とも苦しくないでいられるのは、それが一番だよ」
その「意志」とは、まるで反対の言葉。
「意志」を伝えたならば――彰もまた、自分と同じように苦しむ事になるのだから。

嘘を吐いてでも、彼と一緒に生きていく事が、わたしの義務である筈だから。


僕は初音の言葉を聞いて溜息を吐く。
彼女は、傷つけられても良いのだと云っている。そして、僕が生き残らなければ死ぬとも。
つまり、彼女にとって自分はそれ程の存在になってしまっていたという事なのだろう。
どんなにつらくても生きていく事が――僕に課せられた命題なのだろうか?
それならば、それはなんと残酷な事だ。
だが――それが最も残酷な事だというのなら、僕は生きていくべきなのだろう。
僕が死んでも彼女が死ななかったならば、その心の傷はいつか癒えるだろう。
だが、もし僕が死んですぐ、彼女が後を追ったならば。
それでは意味がないのだ。

それならば、僕はやはり生きていくべきな――

キィィィィィィィィィンッ――――――――――!

――瞬間、頭痛が僕の脳髄に走る――!

キィィィィィィィィィンッ――――――――――!

――殺せ。
――目の前でぬくぬくと生き残ろうとしている、偽善者を殺すのじゃ。
――生きる事の意義もしらない、小娘を。

誰の声だ、女の声、それは女の声だ。聞いたこともない女の声だ。

――そうだな、一時、おぬしの身体を借りる事にしよう。
――相性が合わぬから、長時間棲み付くことは難儀だろうがの。

目の前で突然しゃがみこんで頭を抱えた彰の様子に、初音は何か悪いものを感じていた。
彰の顔に不思議なほど多量の汗が浮かんでいる。何かに耐えているような表情だった。
その表情には、まるで別のものが潜んでいるかのような。
「あ、彰お兄ちゃ――」
初音が心配げに彼の名前を呼び切る前に、彰は数歩前にいた初音に駆け寄った。
そして腕力で以って身体の自由を制し、初音を大地に圧し伏せると――彰は初音のその喉に、再び手を充てた。

「あきら――おにいちゃん」
蛙の潰れたような声をあげて、初音は苦しそうな顔をした。
そして、その上に乗っている彰もまた――苦虫を噛み潰したような、どうしようもない顔をしていた。
まるで自分が何をしているのか判らないような、そんな顔だった。

――……待てよ、冗談だろ?
  何を、僕は何をしている?
  待てよ、なあおい、僕の心は本当におかしくなっているのか?
  なんで、なんで、なんで!
  この手に入る力が緩まないのは何故だ!


ぎりぎりと、わたしの首を締めつける力が強まっていく。
先程とは比べ物にならないほど強い力で、わたしは殺されていく。
その朦朧と歪む視界の先に見たのは、驚愕に震える彰の表情だった。


――ああ、お兄ちゃん自身は、やっぱり壊れていたのじゃないのだ。
  ごめんね、彰お兄ちゃん。勘違いしていた。
  お兄ちゃんの中には、やはり「鬼」がいたのだ。
  首を締める彰お兄ちゃんの顔は、自分が何をやっているか判らない、そんな色が見えるから。
  殺したくてわたしを殺そうとしてるんじゃないんだな、と判った。
  それならやはり、わたしがあげた血の所為かな?
  わたしの所為でお兄ちゃんが壊れたのだとしたら――本当にごめんなさい。

  こんな事を云うと、彰お兄ちゃんは怒るかもしれないけどね。
  お兄ちゃんを探しに出たはじめから、決めていたんだ。

  彰お兄ちゃんに逢ったら、殺してもらおうと。

  わたしは彰お兄ちゃんに――殺して欲しかったんだ。
  彰お兄ちゃんは耕一お兄ちゃんを殺さなかった。殺せなかった。
  結局、彰お兄ちゃんは優しいお兄ちゃんのままだったんだ。

  それなのに、わたしは勘違いをしてお兄ちゃんに銃を向けて、殺そうとした。
  勘違いだから、で赦されるはずもない。わたしは紛れもなく自分の意志であなたを殺そうとした。
  恩を忘れたみたいに、思い出すべて忘れたみたいに。
  お兄ちゃんは優しいからその事も赦してくれたけど、わたしは自分が赦せないから。
  自分の弱さが、自分の偽善性が。
  死ぬべきなのは、わたしだった。殺そうとしてごめんね。

  本当に今更だけど、聞いて欲しい事があるんだよ。
  さっき彰お兄ちゃん、云ったよね。死んだら、全部忘れてしまうって。
  それですべてがお終いになってしまうって。

  でもね。

  ああ、声にならない、声にならないよ。
  彰お兄ちゃん、ねえ、聞こえてる?
  すごく愛しい、大好きだったからね?
  今思い出せる事は、彰お兄ちゃんと過ごしたこの短い日々だけ。
  つらい事ばかりだったけれど、楽しくて、楽しくて、楽しくて。
  楽しかった事しか思い出せない。嬉しかった事しか思い出せない。
  優しいキスをくれたね、強く抱きしめてくれたね、二人、肌を重ねたね。
  優しい言葉をくれたね、励ましてくれたね、護ってくれたね。

  だからね。

  彰お兄ちゃんの事はね、死んだって忘れないよ。

初音の唇が小さく動いているのに彰は気付いた。
何かをいいたげなのに、それは声にならない。
この手の力を緩めれば、その声が聴けるかもしれないのに。

――やめろやめろ、やめろぉぉぉぉッ!
  何故君を殺さなければならない。なぜ、なぜ、なぜ!
  嫌だ、嫌だ、君を殺さなければ行けない道理はない!
  なんでなんでなんでッ!
  嫌だッッ!
  僕は何だ! 僕は誰だ!

唇の動きを読むにつれて――彰は、腕に入る力が一層強まった気がした。
――なんて事を呟く。

  死んだって忘れないよ。

確かにそう動いた。初音は小さく笑むと、それを最後に目を閉じた。
彰の全身から溢れるように流れ出る汗が、一瞬にして冷える。


彼女の身体から、だらりと力が抜けた。


閉じられた瞼。小さく開けられた口。
失われた、こころ。
そして彼女が、どうしようもない遠くに行ってしまったのだという事が、理解できた。
そこに至って、漸く彰の手から力が抜けた。



「うわああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

遠く海の果てまで届くような、そんな絶叫をあげて彰はその手で自分の顔を覆う。
涙が零れない。絶望だけが胸の中に押し寄せて、僕の体温を奪っていく。
ああ、僕は何の為に生きているのだろう?
彼女を護るために生きてきたのじゃなかったのか?
この手の自由が利かなかったのは何故だ!
何故、何故、何故彼女を失わなければならない!
何の為にこの島で生き残ってきたのだ、何の為に!
それともどうして生きているかなんて考えてはいけなかったのだろうか?
誰か教えてくれ、なあ、誰か、誰か、誰か!

――人は、罪深き存在だからの。

そんな声が聞こえた。僕の内側から響く声は、他人の声だった。
少女のような柔らかな声と、地獄行きの人間のように悲しい言葉。

――生きている事がどれだけつらいかも知らずに、お前は生きてきたのよ。
――更に云うなら、生きとし生けるものすべても、それを知らなかったのじゃな。
――それが、人の罪じゃ。

そんな言葉が響いたかと思うと、声は次第に遠ざかり、何処かに消えうせてしまった。
(生きている事が、どれだけつらいか)
その言葉の意味を理解するに至ったとき、僕は――きっと完全に、壊れた。

そして、ぽたりと流れているそれに気付く。

――彼の頬を伝うのは赤いもの。
目を閉じていて、未だ赤みの残る顔の――永遠の少女は、それでも口元には優しげな笑みを浮かべていた。
ひどくひどく、美しくて。きっと誰よりも綺麗な顔をしていて。
ぽたりと音を立て、その柔らかな頬に、赤いものが雫となり零れていく。
彼の瞳も真っ赤に染まっていく。頬を伝う赤い雫。それは真っ赤な――
涙の雫だった。
先程自分の友人であり、少女の兄でもある男が流したものと――同じ色の涙。

それは、彼の慟哭だった。




【019番 柏木初音 死亡】

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