焼け野が原。
壊れた筈の僕の精神が未だにこの肉体に留まっているその理由。
瞳から溢れる赤い涙を拭って薄い呼吸と共に立ち上がった理由。
初音の亡骸の傍らにあった拳銃を拾い強く握り締めたその理由。
僕はやはり壊れているのだと思う。そして壊れているとしたらずっと前にだ。
愛しい人を数刻前に殺めているのに冷静に物事を考えられる時点で――僕は何処か螺子が飛んでいたのだろう。
「生きている事を罪だと知らずに生きていた事が、罪」
僕は茫洋として呟く。
つまり、僕の中に入ってきたあの少女が、僕に初音を殺させた理由というのが――
彼女が生きている事が罪だったから。生きている事を罪だと知らずに生きていた事が、赦せなかったからだという事。
そんな理由で、初音は殺されたのだ(理解した瞬間、僕の精神はその瞬間に完全にいかれたのだ)。
そしてこの島で行われてきたすべての殺人も又、そんな理由の為に行われていたのだと僕は確信していた。
あれが「元凶」だ。
あれが僕達に人殺しをさせてきたのだ。そして人殺しをさせる理由が、このくだらない理由であるのだ。
あの少女こそが悪魔であり死神だ。――あれが何であるかは判らない。
意識だけを自分の中に入り込ませ、尚且つ自分の身体を操る――
普通の人間に出来る芸当ではあるまい。いや、生物に出来る事でもあるまい。
僕は超能力など信じていないし、現実こそが信じるに足るものだと理解している。
初音を殺めたのは自分自身の狂性であると思ってしまえばそれで後は僕も後追いをするだけだ。
だが――声が聞こえたのだ。一度も聞いた事の無い、少女の声が。
何処かで聞いた事のある声だったかも知れない。似たような声を聞いた事があったかもしれない。
だが、あの口調だ。
あんな時代掛かった喋り方で声が聞こえてくる道理が無い。
つまり僕自身とは別の存在が、僕の中に入ってきたのだと、そう考えるべきなのだ。
僕は仮定する。
「あれは意識だけの存在であり、幽霊のようなものである」
僕は現実しか信じない。そしてこれこそが今の僕の現実だ。
その意識だけの存在は今は僕の中にはいない。僕の身体は少なくとも今は僕のものだ。
つまり「あの存在」は、――生きている人間の身体に自由に出入りする事が出来るのだ。
あの少女が自分の中に入ってきた理由。
それをふと考える。そして数瞬後に僕はその目的を理解して――多分、薄く笑った。
あの少女は僕の中に入ってきて、僕に愛しい人を殺させた。それは。
そして、少女が僕に囁いた言葉。
「僕に殺人鬼に落ちろ、と言う事か?」
生きているものは罪だから、殺せ。愛しいものを殺したのだ、もう人を殺そうがどうしようが構うまい。
――笑わせる。
「ふざけんなっ! ふざけんなぁっ!」
畜生! 畜生! 畜生! 畜生!
「ちくしょぉぉぉぉおおお! 初音ぇっっっ!」
そんなくだらぬ理由で、僕は大切な人を失わなければならないのか?
生きている事が罪だと? ふざけるな!
確かに目を閉じて横たわる初音は美しいさ、きっと何よりも美しいだろう。
だが、それは初音が生きていたから美しいんだよ――!
どんなに苦しくても生きようとした彼女の微笑みがあったから。
二度と彼女の微笑む姿が見ることが出来ない。
ずっと護りたかった人に逢うことが出来ない。
「ちくしょぉおお……っ」
落ちてたまるか、殺人鬼になど落ちてたまるか!
――あの意識だけの存在を殺す。必ず殺す。
僕は二度目の慟哭の後、その壊れた筈の精神の中で決意した。
殺してから僕は初音のところに逝く。
だが、どうやって殺す?
――肉体が死んだら、精神も死ぬんだよ。
誰かの肉体に乗り移っている時。
その瞬間にこそ、僕は「あれ」を殺せるのではないか。
――もう一度自分の身体に「あれ」が憑依した時。
――耕一か誰かが、僕を殺してくれれば良いのだ。
だが、そんなに上手く行く筈がない。
今耕一に会ったら、今度こそ彼は僕を殺すだろう。今度は何より大切なものを本当に殺されたのだから。
だがそれでは意味が無い。殺してもらうのは「あれ」をどうにかしてからでなければ。
そして僕は一つ考えを思い付いた。他人に依存した脆弱な考えではあるが。
この島には超能力のようなものを持った人間が何人もいる事を僕は知っている。
彼らが既に「あれ」について何か調べている可能性もあるだろう。
そうであるならば「あれ」を倒す方法――誰かの肉体に乗り移らせて斬る――を思い付いているかもしれない。
そして「誰かの肉体に乗り移らせる」方法さえ、思い付いているかも知れない。
――僕の身体を「あれ」を殺すために提供しよう。
僕の身体に乗り移った瞬間、この拳銃で僕は自分の脳天を貫いてもらおう。
僕はまた何処かへ向けて歩き出すことを決めた。
耕一と逢ったら終いだ。彼に殺されてそれで僕の人生は終わりだ。
だが――そこで終わってしまったならば、仇討ちは為されないのだ。
ふと身体に力が戻っていくような錯覚を覚える。今すぐにでも走り出せるほど、筋肉が喚いている。
血は流れ切った筈なのに。それでも目は冴え、一時よりも尚強く、強く。
――僕の心の底で何かが蠢く音がするのに気付く――それは、新たな意志。
まともな僕と、暴力的な僕。その二つの性質の陰に隠れて、殆ど見えなかった意志。
冷静さと暴力性を重ねそえた、もう一つの意志。
「それ」はまだ、僕の心の底で力を蓄えているだけの微弱なもの。
だが、数刻前よりも確実にその意志は強くなっている。
「それ」は今はただ、僕に力を与えてくれているだけの存在。
時折声が聞こえていた。
――自分とまったく同じ声の、狂人の声が。
(それが、比喩ではなく「鬼」と呼ぶものである事を、僕が知る時は永遠に来ないだろう)
人殺しになっちまえ、自分に身体を操らせろ、と囁きかける声が。その声は次第に大きくなっている。
(人殺しになれば良いだろ? どうせ愛する人は死んだんだ、落ちてしまえばいいだろが)
いつの間にこの声が生まれたかは知らないが――
まだ、僕はこの身体を譲るわけには行かないんだよ。
そんな意志に身体を支配させる訳にはいかないんだ。
僕はもう一度初音の亡骸を撫でる。
結局は僕の手で君を殺してしまった。
苦しかっただろう。苦しかっただろう、苦しかっただろう。
ぽたりと、今度は透明な涙の雫が一つ落ちた。
僕は誰より弱い人間だ。すぐに君の後を追えばいいのにね。
僕の弱さを、もう少しだけ許容してくれる事を祈る。自分勝手でごめんね。ごめんね、ごめんね。
空を見上げた。もう二度と見上げる事はないだろうと思っていたけれど。
その茜色の空があまりに美しかったのを僕は忘れないだろう。
あの真っ赤な太陽に焼かれて、大地も海も真っ赤に燃えている。
この真っ赤な焼け野が原を歩きながら、僕は執念深く生きている。
だが、それでも忘れてはいけない。たとえ執念の生の中でも
この空の下で、僕は愛すべき大切な人を――殺したのだという事を。
そして僕もこの空の下で死ぬのだという事を。
――死んだって忘れない。
【七瀬彰 ――――――――――復讐鬼に。初音の推論は間違いで、結局「鬼」は彰の奥に潜んでいた。
取り敢えずは鬼に身体を操られる事もないまま、さ迷い歩く】