約束を


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(正しくないことが正しいことだってある、か……)
 耕一は北川の言葉を反芻していた。医療器具の入っている小さな箱を見ながら。
 傷だらけの耕一にこそ必要だと、先程北川が置いていってくれたものだ。仮に
参加者への支給品に毒の類があったとして、それを解毒する方法は必ずある。万
が一、管理者側の人間に毒が使われた場合を想定して。応急処置セットが管理者
側の施設にあったものだとすれば、その方法がこの中にある可能性は非常に高い。
 中を探す。
 医療の知識があるわけではないが、解毒剤と思しきものは一つしかなかった。
小さなケース。その中にはしっかりと固定されたガラスの瓶と、小さな注射器が
入っていた。扱いから見て、これが捜していたものだと見ていいだろう。
 血と共に毒も多少は流れ出しているのだろうが、それでも油断はできない。
 彼はそれを解毒剤と断定し、意を決した。博打ではあったが。瓶の蓋を開け、
注射器で中の液体を少しだけ吸い取る。そして、自分の身体に針を突き立てた。
多くの傷で熱を持った身体に差し込まれる、鋭く冷たい感触。体内に流れ込んで
くる異物もまた冷たい。
 針を抜き、ケースの中に入っていた綿で綺麗に拭く。その上で、注射器と解毒
剤の入った瓶をケースに収める。しばらくじっとしている。
 どうやら、間違いではなかったようだ。身体に異常はない。


 北川が置いていったのは、それだけではなかった。
『これ、施設の中にあった応急処置用のキットです。多分これが今一番必要なの
は耕一さんだろうから、置いていきます。俺も施設には戻りたい――残してきた
CDは、俺にとってこの島で生きてきた証なんです。でも、ここで人を見捨てて
まで戻ることはできない。だから、俺は、千鶴さんと梓さんを探しに行った月宮
さんを追います。蝉丸さんがいない以上、今みんなをまとめられるのは耕一さん
だけです。耕一さんにはみんなをまとめて、施設に残ってた三人を助けに行って
ほしい。CDは、できれば――で構わないですから』
「あ、あの、大丈夫ですか?」
 おどおどしながらもそんなことを尋ねてきたのは、観鈴だった。
 事情も何も分からない者が端から見た場合、突然の奇行としか思えないような
行動だったのだろう。彼女が心配するのも無理はない。
 力無い笑みではあったかもしれないが、それでも耕一は少し笑ってみせる。
「ああ、大丈夫。心配してくれてありがとう」
 そう、大丈夫。
 大丈夫ならば。
(済まない、北川君。俺にもやらなくちゃならないことがあるんだ)
 彼は、胸中で北川に詫びておいた。


「大まかな状況は北川君から聞いた」
 互いに情報交換しようとしていた最中だったのだろう――少々揉めているよう
だが。七瀬、晴香、繭の三名の視線が一斉に、耕一とその傍らにいた観鈴に向く。
それだけの力を持った声だった。
「が、がお……」
 プレッシャーに負けた観鈴は、そんなうめき声を発した。同時に、即座に自分
の頭を小突いてくれる人がもう誰もいないことを寂しく思う。
 一方の耕一は、そんなことには気付かず。話を続ける。
「施設に残っているは三人。例のCDも施設に置きっぱなしらしい。まだ管理者
側の戦力が残っていたのかもしれない。あるいは、あまり考えたくはないけれど、
三人のうちの誰かが凶行に走ったのかもしれない。どちらにしても推測の域の話
だから、実際に何が起こったのかは分からない。そして」
 彼は自分の持っている小さな箱を掲げてみせた。
「これは北川君が置いていってくれた応急処置セットだ。この中に解毒剤らしき
ものが入ってた。試しに自分に打ってみたけど、とりあえずは大丈夫だったから
可能性は高いと思う。俺は、これを持ってマナちゃんのところに戻ることにする
よ。そう約束してるからね。マナちゃんが動けるようになったら、北川君達――
それに千鶴さんや梓を探すつもりでいる。みんなは施設に行って、残ってた人を
助けてあげてくれないか?」


「そんな、あなたまで何言ってるの!?」
 明らかに狼狽した様子で、繭が叫ぶ。
 その声量に驚いたのは、七瀬と晴香だった。特に七瀬は本来の繭をよく知って
おり、故にこの変容ぶりについていけていない。つい先ほどまで茫然自失として、
まるでこちらの話を聞いていなかったように見えた繭から発せられたその叫びは、
二人を圧倒するほどのものだった。
 無論、耕一の側にいた観鈴でさえもその身体を奮わせている。
 繭の叫びに気圧されていなかったのは、耕一ただ一人。
「俺の勝手な事情なのは分かってる。だから俺一人で行くよ」
 繭は呆然自失とはしていたが、そんな繭と別の部分――彼女の最も冷静な部分
だけは、七瀬や晴香の話をしかと聞き、分析していた。当然、二人からは耕一の
置かれた状況、そして行動目的についての話も出ていた。
「もう死んでるかもしれないそのマナって人のところに戻って何になるわけ!?
こんな状況じゃあ、そんな約束何の意味もないじゃない!」
 失言だった――本当にそう思う。繭もそれは認めていた。
 ただ、自制することはできなかった。
「それは違うんじゃないかな」
 でも、耕一はそんな彼女のことを優しく諭すだけで。
「こんな状況だからこそ――約束は守る必要がある、と思うんだ」

【柏木耕一、解毒剤により完全に毒を無効化。マナの下へ向かう決意を固める】

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