わがまま
「ふー、ようやっと帰ってきおったか」
部屋には、散開したメインモニターの破片と、血の匂い。その異常な状況の
中で彼ら――千鶴、繭、北川――を出迎えたのは、以前と変わらぬ声だった。
凄惨な現場の中でいたたまれない気持ちになる三人に、G.N.はいつもの
調子で尋ねる。かろうじて修復できた音声機能だったのだが、三人がそのこと
に気付くはずもない。
「いいのか? あの嬢ちゃんも来とるぞ?」
「あの嬢ちゃん?」
北川の素っ頓狂な返事に、少々いらつきを覚えながら答える。時間を無駄に
できないのはお互い様であろうに。
「忘れたか? 施設周囲には固定カメラがあるじゃろ? 例えばほれ、施設の
出入り口近辺のカメラじゃが」
メインモニターはもう存在しない。仕方なく、予備の端末の小さなモニター
に映像を映し出した。あまり余力はないが、彼らには見せる必要があるだろう。
千鶴、繭、北川の三人は、狭苦しいながらも一斉にその映像が映ったモニター
を覗き込む。
そこには。
泣きながら銃を構える女と、ただそれを見据える男がいた。
男は、七瀬彰。
そして、女は。
「こいつ――スフィー、か?」
北川が断定できなかった理由は、ただ一つ。
それが少女ではなく女だったからだ。
「こういうことを言うのは酷かもしれんが――芹香嬢と詠美嬢を殺したのは、
あの嬢ちゃんじゃ。ついでに言わせてもらえば、ワシの自慢のメインモニター
をぶっ壊してくれたのもな。大分見目は変わっとるようじゃが」
推測の範囲内でしかなかった事実。
ろくに動くことすら出来なかったその少女の身体が女の身体となり、平然と
動き回り、しかも彰と対峙して銃を向けている。考えられる可能性は。
「やはり、神奈の影響を受けてしまっていた、ということですか……」
千鶴は苦渋の表情を浮かべ、そう呟く。万が一スフィーに神奈自身が降りて
いた場合は、それをスフィーごと斬らねばならない――ということになる。
「あの馬鹿、何やってんだ……」
北川は納得できなかった。
スフィーは誓ったはずだ。
必ず生き残って、出来ることをやり遂げて、元の生活に戻ると。
それなのに、彼女はあんなところで何をやっている?
「神奈の影響だってんなら、CDを使えば――あんたが無事ってことは、CD
は無事なんだよな? もう解析も終わってるんじゃないのか?」
「CDは無事じゃよ。じゃが、こういうことを言うのは酷かもしれんが」
その声は、あまりに無慈悲だったように思えた。
「今すぐ使うのは無理じゃな」
「おい、何呑気なこと言ってんだ!?」
北川の怒声をものともせず、G.N.は続ける。
「ワシとてそれなりに苦労しとるんじゃ。ワシを蝕むウィルスを何とかしない
限り、危なっかしくてCDの起動プロセスすら開けん。ワシがお釈迦になった
として、他の誰にそれができるんじゃ? 急ぎなら余計に、作業に集中させて
もらうぞい。ウィルス駆除のな」
そしてG.N.は沈黙した。モニターの映像も消える。
「ちくしょう――何なんだよ――何だってんだ――!」
部屋を飛び出そうとした北川を押し止めたのは。
「……北川君、あなたはここにいなさい」
意を決した、千鶴。自分達はやれることを――やるべきことをやるしかない。
「私達は、彼の援護に行きます」
繭もその言葉に従った。
千鶴にも、繭にも、分かっていた。神奈の影響を受けているであろう者――
スフィーに、CDの発動を前にして再びここに踏み込まれてたら、神奈に対抗
できる数少ない――ただ一つかもしれない術が失われてしまいかねない、と。
予想外のアクシデントで晴香という大きな戦力を失い、彼女を治療しようと
している七瀬もまた動けない。観鈴は戦いの場に出せるような娘ではなかろう。
G.N.があの調子では、施設のセキュリティにも大して期待はできない。
少なくとも、時間を稼がねばならなかった。
それだけが、彼女達にできる唯一のことだった。
「スフィーは――スフィーはどうなる?」
そんな北川の問いには、こう答えることしかできなかった。
「……CDが使えるようになるのが先であることを、祈るしかありません」
今回ばかりは、北川も千鶴の言に従うしかなかった。
千鶴を追うように部屋を出ようとした繭が、振り向かずに北川に告げる。
「北川――あなたには、本当に辛い選択を強いることになるわ。それを決める
権利があるのは悔しいけど私じゃない。あなた自身よ。あなたが決めなさい」
繭は芹香との語らいによりそれを知っていた。私が代われるものなら――と、
本当にそう思う。繭にとっても、CDはそれ以上の意味を持つものなのだから。
だがそれは、千鶴にも、繭にも、他の誰にも許されない。
もう北川のみにしか許されていないことだった。
CDを使えば、どうなるか。部屋に一人残された北川も思い出していた。
――アレほどの化物に下手に抵抗されれば呪詛返しであっという間に――
それは。
――あの世行きよ――
スフィーの残した言葉だった。
呪詛返しを妨げられるだけの可能性を持っていた芹香はもうこの世におらず、
実際に妨げようとしていたスフィーはあちら側に行ってしまった。もう守って
くれる者は存在しない。
不思議と、死ぬことは怖くなかった。だが許せなかった。
多くの人間の――スフィーの連れの、レミィの、祐一の、それ以外にも多く
の人間の――死の上に成り立っている自分の命もまた、失われてしまうことが。
それでも、やるべきことは果たさねばならない。彼の葛藤は終わらなかった。
「ふ、二人ともどうしたんですか!?」
自分の横を颯爽と――といった感じではなく、慌ただしく駆け抜けていった
千鶴と繭の後ろ姿にそんな問いかけをしてみた観鈴ではあったが、とても返事
が返ってくることを期待できるような状況ではなかった。
ただ、彰の言葉が気になった。
銃声。
何があったのだろう?
彼女は医務室ではなく、千鶴と繭がやって来た方へと向かうことにした。
北川は予想外の来客に驚いた。
観鈴自体にはもちろんだが、その頭の上に置かれた猫、左肩に止まっている
カラス、右肩に巻き付いている白蛇に。
残骸と血にまみれたこの部屋の状況に、彼女もまた驚いてるようだった。
「えっと、彰さんが銃声が聞こえたって言ってて、その――大丈夫ですか?」
「……晴香さんが撃たれたんだ、HMに」
「え?」
「大丈夫。HMは晴香さん本人がやっつけたし、晴香さんの方は七瀬が医務室
に連れてってる」
「じゃ、じゃあわたしもお手伝いに行った方が――」
「神尾さんも行く必要はないんじゃないかな。七瀬に任せといて大丈夫だろ。
あいつ、あれでも自称乙女だから、看護婦の真似事ぐらいはやってのけるさ。
といっても、ここもあまり居心地のいい場所じゃないだろうけど」
それはわがままだったかもしれない。
間違いなくわがままだった。
でも今は。彼女に側に居てほしいと思った。レミィの面影を感じさせる彼女
が側に居てくれれば、きっと何もかも上手くいくんじゃないかと思えた。そう
思えるだけで良かった。
「その、じゃあ、北川さんは――」
観鈴は率直な疑問をぶつける。
「――ここで何をしてるの?」
北川は、苦笑混じりにこう答えた。
「そうだな……一点差で迎えた九回裏、ワンアウト、ランナー満塁。ベンチで
代打に呼ばれるのを待ってるって感じかな?」
ホームランである必要はない。もちろん、ホームランであれば申し分ないの
だが、それを期待するのは贅沢な話だった。
役目を果たすという意味では、犠牲フライでも十分だ。
G.N.はあえて聞かなかった。あのHMがどうなったのかを。
彼らが生きてここに辿り着いたという事実が、それを示していたから。
北川はあえて言わなかった。その時が来たらここから逃げろと。
命を対価として支払う自分のことを、止めようとするかもしれないから。
聞く必要はなかった。言う必要はある。しかし、まだ言わなければならない
時ではない。
それは彼の、ほんの少しのわがままだった。
【柏木千鶴&椎名繭、七瀬彰の援護に向かう】
【北川潤&神尾観鈴&動物共、コンピュータールームにて待機】